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春日葉月。齢は二十八歳、担当は英語。独身。
透き通るような白い肌に艶のある長い黒髪、体躯は華奢なのに凛としていて独特の色気を漂わせている。
だからこそ妙な噂が絶えないのかもしれない。
マッチョの体育教師に狙われているとか、教頭の不倫の相手だとか、あるいは過去に酷いことがあって男性不信になったとか。面白がって好き勝手な事を言う奴ばかりだなと、雅史の腹の虫はいっこうに収まらない。
けれどその中で信憑性の高い噂がひとつ。クラスの女子生徒や、教師達の立ち話を拾い集めて勘案してみるに、四歳になる娘がいるとのこと。雅史はあの可憐な先生が禁断の恋に堕ちたのかと勝手な憶測で夜も眠れず、そのかわり授業中に爆睡した。それでも葉月の授業だけは決して聞き逃さなかった。
語学というものは雅史の天敵だったが、葉月の英語の授業は好きだった。大好物といったほうが適切かもしれない。流暢な英語の発音は小気味よい音楽のようで、その音色が鼓膜を優しく揺らすと、まるで魔法をかけられたように胸が熱くなって体が痺れてくる。
幸せだった。そして幸せを感じるほどに、葉月の男性遍歴を妄想して自作自演の苦悩を味わった。
ところがある日、雅史は苦悩から突然、解放された。同級生男子が教室で葉月の噂をしていて知ったのだ。他人の口から「春日先生」の名前が出たから、素知らぬ振りで聴覚を鋭くする。
「もともと結婚するつもりだった彼氏がいたけど、うまくいかなくて別れたらしいよ。だから『春日』は旧姓だし、今も実家で暮らしているんだって」
聞いた雅史は胸を撫で下ろして机の上に寝そべった。一気に体の力が抜けた。
雅史は「春日先生を大切にしない男なんてろくでもない奴だ」と思う反面、その男が葉月の目の前から消えてくれたことに安堵していた。それに雅史の中でくすぶる禁断の恋疑惑は消え去って、不思議なほど眠れるようになった。
「See you next time!」という葉月の挨拶が教室に響き渡ると、雅史は葉月の元へ駆け寄り、質問のふりをして約束を取り付けた。「放課後、この教室に来てもらえますか」と。
葉月は一瞬驚いたようだったが、しばらく思案すると何かを思いついたような表情をし、黙ってうなずいた。断られる事態を想定していた雅史だったが、何も聞かずに承諾されるとは予想外だった。けれど首を縦に振られた以上、引き下がることはできない。
放課後の教室。窓が黒いカーテンに覆われていて薄暗く空気も冷ややかだ。いつもはにぎやかな空間のはずなのに、誰もいなくなるとやたら静かで不釣合いに感じる。その違和感は雅史に身の程知らずだと思い知らせるような重たさがあった。
だけど、それが何だっていうんだ。
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