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手を引っ込めようとしたけれど、葉月はすがるような表情で雅史を見やる。
「逃げないで、お願い」
そして雅史の手を反対の胸に移した。その瞬間、雅史は息が止まりそうになった。
ない……マシュマロが。
ごつごつとした硬い感触が伝わり、肋骨の並びがはっきりとわかる胸。皮膚の継ぎ目のような筋が指先に感じられた。
雅史の手のひらが小刻みに震える。反対側の胸とは温度も感触もまるで違っていた。
そのアシンメトリーな体躯は、葉月の身に起きた凄惨な現実を雅史に突き付けていた。
しばらくの堪え難い間の後、葉月は雅史の手を握る力を緩めた。引きつった雅史の顔から視線を逸らし、消え入るような声をこぼす。
「ごめんね、そういうことなの。手術したんだけど、だめだったみたい……」
そのひとことの意味を飲み込むのにはそれなりの時間が必要だった。頭の中で否定しながら他の可能性を模索したけれど、辿り着く結論は同じ場所だった。
それがどんな意味を持つのか、どれだけ悲しいことなのかなんて、その時の雅史にとっては風に舞う綿毛のように現実感のないものだった。
そして一学期の途中で、葉月は高校を去った。
人生経験が少ない雅史は、人生というものは何事も努力すれば必ず報われるし、それができない人間だけが取り残される、いわゆるアリとキリギリスの世界なのだと思っていた。けれど現実は寓話でできているわけではなかった。
だから「運命」という二文字の言葉が神様の残酷さを正当化する言い訳のように思えた。
雅史は悟った。どんなに頑張って生きても、神様は時に何の罪もない人間の命の炎を簡単に消してしまう。白羽の矢を打ち放って、ひたむきな命すら弄ぶような娯楽をするのだと。
だから神様の娯楽に巻き込まれてしまった葉月は、娘に自身の生きていた足跡を見える形で残そうと決心した、そういうことだった。
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