11人が本棚に入れています
本棚に追加
己だけは違うと思い込んでいた。間夫に熱を上げるなど、惚れるも地獄惚れられるも地獄のこの苦界でただの気休めだと思っていた。だが、この髪結の清の前では己のまことを曝け出してしまう。股を開くことは心が擦り減るが、もう慣れてしまった。だが、まことの心を男に傾けるのは股を開くより困難で重要なことだった。心底、清を愛していた。月が幾度、姿を変えようとまことの心は清のもの。
唇が名残惜しく離れていく。身体の芯が熱くなるような苦しくなるようなもどかしさが深雪のように降り積もる。
「……菊川、花魁」
「清、花魁はつけねぇでおくれなんし、ここではただのおなごだ。年相応の欲に塗れたおなごだ」
「菊川」
「あい、清……愛しい、清」
清は戯言は言わず、私を畳の上に組み敷いた。私の腕を頭の上で組み、逞しい筋肉のついた手で身体を拘束する。曝け出された清の眉目秀麗な顔が私の瞳に映される。私の唇に自身の唇を重ね、舌を咥内に差し込む。私の洗い立ての髪の毛を優しく撫でる無骨な清の指先。
「…、き、清」
「菊川」
戯言が、手練手管がものをいう吉原の夜。言葉は要らぬ。ここの夜は嘘ばかりだ。そんな嘘ばかりを乗せた言葉など清に吐きとうない。まことの心は私の瞳が清に伝えてくれているだろう。そう願うばかりだ。
「……今宵は暦でいうと、繊月が見えるらしい」
「繊月といえば姿が見えぬことで有名じゃねぇかい。姿を現すのは日没後のわずかな時だけじゃ」
「おめぇと繊月をみてぇもんだな」
日没は夜見世が始まる時刻だ。私は客を取らねばならない。清と繊月など見られぬというわけだ。身体が凍るように冷えていく感覚がして、私は清の胸元にほおを寄せ、清に抱きつく。
「……おまえらしくない、いつも寂しいことは言わぬのに」
「言わねぇだけさ。いつも思っている」
「そうかい…粋な奴だ……」
「菊川、俺はなぁ、出来ねぇことは言わねぇと心に決めているんだ。おまえさんと娑婆に出てぇと思っているが、吉原の男衆が大見世の花魁を身請けなんぞ、出来るわけがねぇ。できぬことを言うことは菊川を傷つけるだけだ。だが、偶に心に決めたものが綻ぶ瞬間があんのさ、……本物の桜をおめぇに見せてやりてぇよ」
吉原の桜なんぞ偽もんだ、そう言いけたけたと笑う清。ここは全てが偽もの。口先だけの約束、春になったら外から持ち込まれる桜。今宵も偽ものの紅葉が夜を彩っている。
私はこの一瞬を刻み込もうと清の唇に自らの唇を押し付ける。体温を交換して、震え、泣くまことの心を清と共有する。
「愛しておる」
「……菊川、俺もだ。おまえさんを心底愛しているよ」
刹那の真実の愛を噛み締める。
「髪を結っておくれなんし」
「……へぇ、花魁」
名残惜しくも今宵の準備をしなければならない。私は清のほおを撫でそう言えば、目前の男は悲しげに瞳を細めた。客を取らないでくれ、という無粋なことを清は言わない。言われたかった。清は私の上から退き、風呂敷を解いた。中から道具が出てくる。私は朱塗りの格子窓を見つめる。
「繊月か……」
私もあんたと見てぇな。
最初のコメントを投稿しよう!