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一章
1
「……っ!」
腕の感覚が感じられない。寒い。寝床の硬さに眉を顰める。
目を開ければ暗闇と煙。
どうして地面に寝そべっているんだろう。
重い腕を地面に立て、ゆっくりと上体を起こす。
いくらか暗闇に慣れた目で周囲を見渡せば目の前に男の人が座って寝ている。私よりも身なりは良さそうだ。私が着ているのは白の薄汚れた長袖のロングワンピースだけ。靴下も靴も履いていない。
こんな私に比べれば誰でも身なりは良いと言えるかもしれない。
その人を見ているとまるで息をしていないかのように眠っていて、その瞬間彼が誰かに襲われた可能性に気づき急いで近づく。確認した限り彼に外傷は見当たらない。呼吸も正常。一安心はしたが——つまりこの煙の中、屋外で無防備に座って寝ている、ということになる。
無防備というには右手に抱えられているものは物騒だが。
「誰だ」
「きゃっ」
寝ていると思っていた相手に腕を取られ、両手で抱かれ胸に体を預けるような体勢になる。逃げられないようがっしりとホールドされ、驚きから顔を上げた。相手もこちらを見下ろして、視線が交わった。
「……なん、ですか」
恐怖から言葉が掠れる。顔から血の気がひいていった。それでも相手はじろっと私を見つめている。どれだけ怖くても視線を外すことは本能が拒絶する。
彼の視線は私を人間として認識していない。
「……お前、珍しいな」
何が、と言わないので何のことかわからず、困惑していると相手は瞳を閉じてため息をついた。
「俺を怖がるのは理解できるが、それならなぜ近づいた」
何を言っているのかわからない。私自身も倒れていたとはいえ、こんな道端で寝てる人がいるとは普通思わないだろう。通り魔にでも遭ったのかと思ったのだ。
「……もしや、お怪我をなされてるんじゃないか、と……」
今度は相手が何が何だかわからないというような表情で眉を顰めた。
「それなら尚更、お前にとっては好都合だろう?」
いまいち会話が成立していないと感じるのは私だけだろうか。
「何でそうなるんですか?誰だか存じ上げませんが、お怪我が無さそうなら離していただけませんか……」
試しにそう言ってみるが、相手はさらに腕の力を強めるばかりだ。
そして先ほどよりも深いシワを眉間に寄せて何だか考え込む。
やっと口に出した言葉はやはり理解不能だった。
「お前は俺のことを誰だかわからないと言ったのか?この世界じゃ誰もが怖がるのに?」
「言い、ましたけど。えっと……怖がられてるのは、どうしてですか?」
眉間の皺で尚更怖さを増した相手に恐る恐る聞いてみる。
「お前もさっき怖がっていたろう?」
それは確かにそうだ。ただそれは相手の情報を知ってる上で怖がった訳ではない。単に顔が怖かったからというだけだ。
「お顔が、怖かったんです」
素直に答える。
「は?」
段々と私も会話が成り立たず苛立ちを覚える。離れようにも相手は全く離す気配を見せない。
「だから顔が怖かったんですっ。私をみるときの目が、人を見る目じゃ無いって感じたから怖くなったんです!」
思いの丈をはっきりと口に出せば幾分か気が晴れたが、それ以上に後悔もした。相手の顔が今までで一番険しくなったから。
まさかここに来て顔が怖いことがコンプレックスだと言われたら私はどうすべきだろうか。このままでは襲われるかもしれないし、襲われればひとたまりもない。
(重そうなハンマー相手は絶対に勝てない!)
「つまりお前は俺が誰かも知らないし、本能的な恐怖も見た目だけってことか?」
「そぅ、でしゅ……」
(……噛んだ……)
この危機的状況で噛んだことで私は最早全てを諦めた。恥ずかしさと絶望に打ちひしがれていると、上から小さな吐息が聞こえた。私は恥ずかしさで顔を見れずに下を向いていたが、相手は体が微かに震えている。
「……っ、ふふ……」
私の頭上から相手の堪えきれない笑いが漏れてきた。
「……でしゅ……っふは」
「もうやめてください!恥ずかしいんですから!」
いつまでも笑いが収まらない相手を見ているとさっきまでの恐怖も怒りもどこかへ飛んでいってしまった。
彼は笑いが徐々に収まっていくと質問をしてくる。
「お前、名前は?」
私はその質問にどう答えるべきか一瞬迷ったが、正直に話すしかない。どうせ誰も信用せず一人で居ても事態は進展しないだろう。
「……分かりません。正直言って、自分に関する記憶がありません。あなたは誰ですか?それにここは?」
煙からして何処かの工場群だろう。なぜ私はこんな場所に倒れていたのか。
「俺?……俺のことはナンバー.11とでも呼んでくれ。ここは工場フィールドだ。記憶が無いって?」
その質問に頷きを返せば相手は先ほどより砕けた雰囲気になった。
「それならさっきの反応も納得だ。ここに倒れてた以前の記憶は一切ないのか?」
「そう、ですね。家族や友人の顔はおろか、自分の名前や今までの行動さえ思い出せません。まるでその部分だけ切り取られたみたいに……。それでも言葉は特に問題なく使えるみたいです」
私はどうして言葉の意味がわかるのだろうかなどと考えたが、相手にはあっさりとした返答しかされなかった。
「まあ、言葉に関しては当然といえば当然だな。ならそろそろ行くか」
「え、どこにですか?この煙の中行くんですか?」
あまりに煙が蔓延していて一寸先も見渡すことができないこの状況では歩くこともままならない。だというのに相手は何の迷いもなく、私の手を取り進む先を指し示した。
「ここは年中無休の工場群だぞ。煙はもはや障害物にはならねえよ。それに俺がいる」
唐突な仲間意識の芽生えかと思えば、相手がそれを察知したのかすかさずフォローする。
「俺はお前を保護監視下に置いておかないといけないんだよ。お前を本当は消す予定だったが予定変更だ。俺の上司に会ってもらうぞ」
今度は急に敵だった宣言をされれば私はもうどうすればいいのかわからず、腕を引かれるまま彼の後について歩いていった。
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