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すべては波の中
今年の社員旅行は、海だった。一応多数決という形はとっているものの、結局は上の好みなんだろうと思いながら、バスに揺られる。泳ぐのは好きではないが、海を眺めるのは好きだ。とくに、波の音だけが聞こえてきそうな、誰もいない海が。
チェックインをしてから夕食まで二時間ほどの自由時間があったので、旅館近くの砂浜にやって来た。そこが遊泳禁止であることは事前に調べていて、それだけが、今回の旅行の唯一の楽しみだった。
写真を撮るでもなく、絵を描くわけでもなく。ただ、今目の前に広がる風景を眺める。波の音と、海風とを全身で感じる。ふっと、風が止んだ。波が穏やかになり、周囲の音にかき消されていく――。
「先輩、そんなところにいたんですね」
「! ……あぁ」
後ろに、同じ部署の後輩が立っていた。後輩はやや驚いて返事にまごつく俺をよそに、こちらへ歩みを進めてついには隣へと立った。俺が海を眺めていた時間に、後輩は温泉に入っていたらしい。短い黒髪が、しっとりとしていた。
「そろそろ戻らないと、夕食の時間ですよ」
人数が少なくはない会社なので、食事は大広間を貸し切りにしている。誰か一人分でも空席があったなら、その者が戻るまで社長の口から「乾杯」の言葉を聞けることはないだろう。社員旅行ももう六度目になるのだから、嫌と言うほどわかっていた。
「わざわざ探してくれたのか? サンキュな。もう少ししたら戻るから、先行っててくれ」
優しくお礼を告げながらも少し突き放すように言うと、後輩の瞳がわずかに揺れた。俺はそれには気付かないふりをして、また海を眺める。後輩が何か言いたげにしていることにももちろん気付いていたが、今だけは、優しい先輩ではいられないのだ。頼むから、どうかそのまま何も言わずに立ち去ってくれ。ゆっくりと、目を閉じる。
「せんっ……」
後輩が言葉を発したと同時、今度はしっかりと後輩を捉えた。確かな鋭さを持たせて。言いかけた言葉を飲み込んだ後輩は「先行ってますね」とだけ残し、海から離れていった。
想いを告げることすら許さない俺は、ひどい先輩だと思う。けれど、俺が後輩の気持ちに応えてやるということは今後何があっても決して、起こらないことなのだ。
一人きりになった砂浜では、また波の音がよく聞こえた。
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