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香りの上書き
週末、本日もなんとか定時退社を勝ち取った俺は、トイレットペーパーが残り少ないことを思い出し、最寄り駅直結のドラッグストアへ立ち寄った。店内の涼しい風を受けながら売り場へ向かっていると、視界の端に、ちらりと見覚えのある後ろ姿。
いや、しかし彼がこんな時間にここにいるはずがない。ただ雰囲気が似ていただけだろう。そう結論付けて、早く目的のものを買ってしまおうと再び歩き出そうとしたけれど、どうにも気になって仕方がなかった俺は、進行方向を変えていた。
さっきはまだ距離があったから気のせいだと思っていたが、近づいたことではっきりと分かった。今俺の目の前に立っているのは、やはり彼なのだと。
「珍しいですね、こんな時間に会うなんて」
突然隣から聞こえた声に彼はびくりと肩を震わせたが、俺の姿を認めると警戒の表情がいつもの優しいものへと変わった。
「抱えていた案件が一段落しましてね。飲みにも誘われたんですが、ゆっくりしたかったので」
「それは……、お疲れ様です」
「いやいや、お互い様でしょう」
彼は、俺が住んでいるマンションの隣人だ。電車は逆方向だったけれど家を出る時間は同じらしく、同時に扉を開けた際に挨拶したことをきっかけに、毎日駅まで徒歩十分の道程を歩く仲となった。けれど、今の今まで帰りに会うことはなかったので、終業時刻が違うのかとぼんやりと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
実際違うのかどうかは別として、残業している日の方が多いのだ、単純に。毎朝最寄り駅まで一緒に歩いているとはいえ、あまりそういう部分の話をしたことはなかった。プライベートもほとんど知らないのである。
世間話も一区切り、俺を見ていた瞳が商品の陳列棚へ戻っていく。そういえば彼は一体何を買いに来たのだろうか……と目を向けてみると、メンズシャンプーが並んでいた。やや時間があって、するりと手が伸びていき、あるブランドの黒いボトルを掴む。
「ピンときました?」
愛用のものを買う、にしては何か含みのある横顔に見とれて、尋ねてみた。
「いや……。別れた恋人がこのブランドを使っていたなと思って」
「……あぁ、そうなんですね……」
衝撃の事実だった。まさか、恋人がいたなんて。別れた理由など知らないし、知ろうとも思わないけれど、目の前で昔の人のことを思い出して懐かしむような表情をされると、まだ未練があるのだろうかと考えてしまう。
――それは、とても嫌だ。
「俺は、ここのを使ってますよ」
気付けば俺は、己が使っている白いボトルを指さしていた。何も訊かれていないのに、彼の表情が困惑に染まっていくのがわかる。そうだ、それでいい。俺の言葉の意味を考えて、元恋人のことなんて追いやられてしまえばいい。
「おすすめなので、もし良かったら!」
俺はそう言い残して、本来の目的であったトイレットペーパーを買うのは忘れずに、ドラッグストアを足早に飛び出した。
ほんの一瞬、わずかな時間だけでいい。今はまだ、彼がシャンプーを買うたびに元恋人を思い出して憂いの表情をしたって構わない。でも、その後に少しでも、今日という日と俺のことが浮かんで、意識してくれたなら。
そうして、いつしかそちらの時間の方が長くなってくれるなら。
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