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夢みて微睡む
駅の東口から徒歩十分、地元の人で賑わう商店街を通り過ぎて喧騒から遠ざかるほどの奥に、その喫茶店はあった。
真鍮のドアノブに手をかけて、なるべく音を立てないように静かに中へ入る。来店を告げるドアベルは存在せず、慣れた足取りで受付のカウンターに歩を進めれば、俺に気付いた店員がにこり、「いらっしゃいませ」と出迎えた。
「ホットコーヒーと、チーズケーキをお願いします」
注文は家を出る前から決まっていた。もう何度も訪れている場所であり、メニュー数もドリンクとスイーツ合わせて二十程なのでとっくに覚えてしまったのである。まぁ、そもそもこの喫茶店に来て悩むのは、軽食よりも何をリクエストするかだ。
会計を済ませた俺は、客席へ向かう前に受付の隣のスペースで立ち止まった。『曲目リスト』と書かれた冊子のページをぱらぱらと捲り、今度は『リクエスト帳』なるノートに曲名などを書き込んでいく。書きながら、自分より先に書かれたであろう文字を見て、自分の口角が自然と上がっていくのがわかった。
「今日もあの人、来てるんだな……」
この喫茶店は入店時に、用意されたノートに書いてリクエストをするので、来店した人が一目でその日にどんな曲が流れるのかわかる仕様になっている。そのため、自分の字が誰かに見られるということを察した俺は、なるべく丁寧に書くよう心がけていた。
そして、俺がここを訪れるようになってから、数回目の時のこと。今まで見た事がない一際綺麗な文字が並んでいて、たったそれだけのことではあるけれど、俺はその字を書く人のことが気になって仕方がなくなった。
いや、それだけというのは少し違う。その人がリクエストした曲は俺の好みと一致していて、そういう面でも気になっていた。曲の趣味が合う人なのだろうか、と。
しかし、ここは音楽鑑賞を楽しむ喫茶店。お客が非日常の、一人の時間を過ごせるようにと配慮された空間はボックス席で仕切られ、あえて周りはほとんど見えないようになっている。もし本当に、俺の予想通り趣味の合う人ならば一度話してみたいと思うが、それは難しいだろう。
少し前に運ばれたコーヒーを啜り、チーズケーキを口に含む。鞄から読みかけの本を取り出したところで、次の曲が流れ始めた。
「……あの人が、リクエストした曲だ」
ピアノが奏でる柔らかい旋律は、俺の好きな曲でもあり。きっと、あの人も今どこかの席に座って自身がリクエストした曲を聴いているのだと思うと、それだけでふわふわとした心地になった。
顔も名前も知らず、ぼんやりとした曲の趣味と彼の書く文字しか知らないけれど。彼と同じ時間を共有しているのなら、いつか話すことができるかもしれない。そんな淡い希望を抱いて、俺は読もうとしていた本をテーブルの上に置き、ピアノの音に耳を傾けた。
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