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懸け橋を渡って
夕食と風呂を済ませて、ほっと一息ついていたくつろぎの時間に現れた彼は、今は先程まで僕がいたソファに疲れ切った体を預けて沈み込んでいる。
近所の居酒屋――僕の行きつけでもある――でアルバイトとして働いている彼は、今日は仕込みの時間から夜十一時までのシフトだったようで、夕方から降り始めていた雨にしっかりと濡れてきたらしかった。しかし今日の雨は朝の天気予報でも言われていたことなのでそれとなく訊いてみると、返ってきたのは「家を出るときは降ってなかったし確認しなかった」という旨の言葉で呆れの言葉も何も言えなくなってしまった。
「ところで君はいつまでそうしているつもりなのかな」
予定外の彼の訪問により飲むのを中断されてとうに冷めてしまったコーヒーを淹れなおしているキッチンから、彼に問いかけるように話しかける。少しだけ、実は迷惑に感じていると思わせるような口調で。
すでにただの客と店員の仲ではなくなっているので彼が雨宿りにやって来たこと自体は別に気にしていない。居酒屋から一番近いのが僕の家だったからというのが理由だろうが、それも結果的には僕を頼りにした事実であるのでむしろ喜ばしいとさえ思う。
僕は傘を貸そうかとは言っていないし、彼は彼で傘を貸してほしいとは言ってきていない。すぐにでも彼が自宅へと帰れる手段はあるのにその行動に移すことをしないくらいには、お互い一緒にいて苦にはならないと、想い合っているのかもしれないけれど。
すべて僕の一方通行だった場合、平常心でそれ以上も以下もない友人ですよ風を装って一夜を共にすることなど、僕にできるわけがない。それなのに、やっぱり僕からこの状況を終わらせるための言葉を言い出すこともできなくて。せめて、彼の口から帰るための言葉が出てきたのなら、僕は笑って彼を送り出すことができるのに。
「んー、虹を見るまで?」
「虹って……」
僕がコーヒーの入ったカップを手に戻ってくる頃を見計らったように、彼が答えた。
確かに、雨が降った後に虹が見えることもあるけれど。しかし、それはあまりにも現実的とは言えないものではないだろうか。そもそも今は夜であるし、いや夜の虹というのも存在はしているが観測条件は多分、昼間のそれよりずっと厳しい。などと考えていた僕の耳に、彼の盛大なため息の音が届いてきた。
「あのさぁ、そろそろ気付いてほしいんだけど」
何に、と聞き返そうとして、持っていたコーヒーカップを落とさなかったことは褒めてほしい。
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