病室に鳴り響く、じいさんのおなら

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 中学生の頃になると「範囲」が増えた。  勉強する範囲。私の世代で、英語という難科目が侵食してきたのはこのころだった。  活動する範囲。自転車でわけもわからず二つ隣の市へ、目的はハリーポッターの映画だった。今では考えられない走行距離だった。  人間関係の範囲。友達が友達を連れてくることが増える。だが、だいたいその付属してきた子とは仲良くなれない。これは今も当てはまることが多い。  そのように広がる範囲が多い中、特に顕著だったのは遊びの範囲だ。それまで走り回ったり、隠れたり、球を追いかけたりしていただけだった自分たちが、テレビゲームという衝撃的に熱中してしまうものを与えられる。カードゲームという、収集と対戦の両方の機能を持ったものを与えられる。インターネットも普及しだした。なんてことはない情報を見ているだけで楽しかった。結果、行動や感情の範囲は増えたが、体全体を動かすことは減った。だが、指や手を動かすことが増えた。  私は結局今も、多くのことを指や手だけで行っている。  だが初めてであったり、希少な体験の数はこのころが一番だった。だから私は、このころのことをよく覚えているのだろう。当時体感した実時間よりも、思い返している時間のほうが長いのではないか。担任の先生、友達一人ひとりの顔が今でも当時のまま思い浮かぶ。喋った記憶が一度もない女子でさえも浮かぶ。彼らは今、何をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。  また空を見る。  そういえば一人、今でもたまに夢に出てくる女子がいる。大木さんというその女子は、当時のシャイボーイ満開の私が喋ることのできた、数少ない女子の一人だった。もちろん、一緒に遊んだこともなければ、良い雰囲気になったこともない。だがなぜか脳の隅っこに残っているのだろう、彼女は私の夢に色々なパターンで登場する。  一緒にカーチェイスをしたり、大きなネズミから一緒に逃げたり、主催者不明の謎の舞踏会で再会したり、彼女は神出鬼没である。前世だとか運命だとか、そのような考えに至ってもおかしくないとは思うが、私はたまたま夢に登場しているだけかなぁ、と思う。夢の原理はよくわからない。実際、当時よく遊んでいたような子たちは、あまり夢に出てこない。  彼らと偶然同じ場所で、同じ時代に生まれて、たまたま席が近くだったり、部活や塾が一緒だったり、色々な要素が重なって思い出が作られた。だからそれと同じように、大木さんは偶然同じ夢に出ているだけなのではないか。もちろん、潜在意識だというような分野を持ち出すことも可能だろうが、科学的なことで解決したくない気持ちがなんとなくある。  だがそもそも現実であっても、夢であっても、出会えるだけで大したものだ。自転車一本頼みだった当時と比べて、今私の活動範囲はかなり広くなったが、それでも日本全体で考えてみると本当に狭い範囲で活動している。当然だが、私が死ぬまでに会う人よりも、一度も会わない人のほうが圧倒的に多い。だから、街ですれ違った人でさえも、関わりがある人のほうなのである。  プゥ〜〜〜    また屁こきじいさんだ。つまり、この人なんて、関わりのある最たる人かもしれない。顔も見たことはないけれど。
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