病室に鳴り響く、じいさんのおなら

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 ということは、この屁こきじいさんのことも好きになることがあるのだろうか。  いや、さすがにないだろう。このじいさんはおならの影に隠れて、実は他にも色々と私を不快な気持ちにしていたのである。  例えば電話。病室の中は、テレビがヘッドフォンでしか聴けないくらいなので、基本的に電話での会話はNGのはずだ。個人的にはヒソヒソ声とかで喋ってくれるくらいなら、気にはならないのだが、じいさんはとにかく声がでかい。さらに、高圧的な口調で喋る。おそらく奥さんと喋っていることが多いと見受けたが、なんの正義感なのか、それがまた癇に障った。これなら、大音量のヘビーメタルや演歌を流されたほうがまだ不快感は少ないと思えるほどで、さらにその高圧的な口調と、若い看護師が来たときの猫なで声のような可愛い声とのギャップがまた苛々を加速させる。ミュージシャンなら、それこそヘビーメタルと演歌を歌えるという幅に繋がるのだが。  他にも嫌いなものほど目に入るではないが、よく耳に入った。若い看護師が来たときのルンルン気分のじいさんの話す内容は、嫌でも耳から入り耳に抜けず、きちんと脳に侵入してしまう。  一度じいさんが「刑事コロンボ」の話を若い看護師にしていた。「ねぇちゃんは知らんやろなぁ、これはな、五十年前くらいのドラマでなぁ……」というように、次々と看護師さんの相槌が弱くなっていく話をしていったことがあった。  どう見ても、二十代の彼女が知ってるはずないし、興味があるはずもないだろ! と、内心思っていたが、逆に自分は同じことができるだろうか? とも思った。私はどうしても人の顔色を見たり、相手に合わせてしまうことが多いのだ。偏見かもしれないが、日本人はそのような人が多いと思う。  だがじいさんは違った。自分の好きな話、したい話を相手が興味があろうがなかろうがなんて、知っちゃこっちゃない。もしくは、それすらも考えていないのかもしれない。本能むき出しである。結果的に刑事コロンボの話は、恐ろしいくらいに不発に終わったのだが、負けて強しと隣人に思わせるものがあった。  そして、謎が解けた。いくつかの点が一本の線に繋がった。  だからじいさんは、おならを鳴らすんだ。誰がために鳴るのではない、自分のために鳴らしているのだ。それは自分はここにいるよ、という存在証明だ。そうだ、じいさんは何もその音を聞いてほしくて出しているわけではない。出すか、出さないか、その結論を出すまでの思考の渦の中に、私や部屋の住人はいないのだ。  急にじいさんへの感情の風向きが変わってきた。不快、嫌悪、苛立ちの中に、尊敬の感情が入り込んできたのである。  じいさんは奥さんに高圧的で、若い看護師には猫なで声。医師には恐縮し、ご飯が美味しかったときは配膳の人に「美味しかったよ」と言うが、それを言わないときもある。つまり、美味しくなかったときの差別化からの感情表現ができている。もしかすると、その「美味しかった」のあるなしが、配膳の人から料理人の人に伝わり「よぉし、今日のカレイの煮つけは好評だったか。また頑張ろう」と、仕事のモチベーションに貢献しているかもしれない。さらに言えば、本当にそのカレイの煮つけが他の料理よりも頭一つ抜けてレベルが高く、じいさんの一言からそれが出る頻度が増えれば、他の患者にだって喜ばしいことである。  凄いことだ。芋づる式に幸福に繋がっていくことにもなり得るのか、自分の感情を素直に表現するということは。  私は今までの三十年で、ある程度固めたと思っていた自分の意志のようなものにピキッと、ヒビが入った気がした。  割るのか? 割らないのか? 出すのか? 出さないのか?   そのとき、おしりに向かって臭気がよじ下がっていく感覚があった。  今こそ決断の時だ。私は自分の心の声に耳を澄ませた。  出すのか? 出さないのか?   プスッ  不発弾のように、私の屁は布団の中で小さく爆発した。いや、爆発したとすら、言えないレベルだ。線香花火のような「風流」とも言ってしまえるほどの花火だったかもしれない。少なくとも四人部屋のこの中で、今の私の屁の音を聞いたのは私だけであったろう。  でも構わない。始めたばかりで結果が出せるほど、人体の神秘は単純ではないと思う。人間社会も同様だ。  これは、ありがたいきっかけをもらったのかもしれない。    カーテンの向こうの影をじっと見る。  私は右膝を優しくさすった。  おならの代わりに、安堵のため息のようなものが出た。
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