幸福論

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幸福論

 ――お前なんか、産むんじゃなかった。  幼少期、菊川が毎日のように母親から浴びせられていた言葉だ。  菊川の両親は共に高校教師であり、母親はかなり教育熱心で、父親は家庭に無関心だった。母親はテレビや漫画、ゲームといった娯楽を一切禁止とし、勉強だけを強要した。  小学校のテストは百点が当たり前、私立の中高のテストは学年で十番以内が当たり前……、その当たり前ができなければ厳しく折檻された。それでも、菊川は母親に愛されようと、期待に応えようと努力した。しかし、母親は一度も息子を褒めなかった。中学受験に合格した時も、第一志望の国立大学に合格した時も、教員採用試験に合格した時も、それが当たり前だと返された。  ――何で、頑張ったのに褒めてくれないんだよ!  ついに菊川は我慢の限界に達し、母親にそう抗議した。すると、母親は虫でも見るかのような目で息子を睨みつけた。  ――いい歳して何言ってるの?……気持ち悪い。  母親にはっきりと「気持ち悪い」と拒絶されたことにより、菊川は母親に愛されることは一生ないのだと悟った。現在では、実家とほとんど連絡を取っていない。    菊川は大学時代に一度だけ、女性と交際したことがある。相手は大学の同期で、向こうからのアプローチを受けて交際に至った。菊川は他人に対して興味を持たない性分なので、それまで一度も恋愛感情を持ったことがなかった。しかし、初めて人から純粋な好意を受けたことで、菊川の心は満たされた。元々自己肯定感が低い菊川は、初めて自分が人から必要とされているのだと実感した。菊川は彼女のことを好きになった。  しかし、交際は半年で終わった。原因は、菊川の依存体質とマゾヒズムだ。  菊川は彼女に執着し、束縛もした。少しでも彼女からの連絡が遅いと、すぐに嫌われたのではないかと不安になった。それが彼女には息苦しかったという。  また、破局の決定打となったのは、マゾヒスティックな一面が発覚したことだった。自身がマゾであることを自覚したのは中学生の頃だったが、その時からこういった性癖は恥ずべきものだと感じていた。そのため、菊川は彼女に嫌われると思って、性癖については隠していた。しかしある日、性行為中に急激に興奮してしまい、思わず「叩いてほしい」と強請ってしまった。その時、彼女に「気持ち悪い」と拒絶された。  ――伊月(いつき)くんって、もっとクールな人だと思ってた。  最後に、彼女に言われた言葉がそれだった。    それ以降、菊川は人と極力関わらないようになった。同僚に対しても、生徒に対しても、どこか壁を隔てて接していた。菊川は落ち着いた性格で眉目秀麗なこともあり、生徒を含めて、何人かの女性にアプローチを受けた。しかし、菊川は全て拒否した。好きな女性に「気持ち悪い」と言われのが怖かった。本性を見抜かれて、嫌われるのが怖かったのだ。誰かと愛し合う喜びよりも、拒絶される恐ろしさのほうが菊川にとって大きかった。  彼女と別れてから、菊川は性欲を満たすために、SM風俗に通い始めた。しかし、そういった職業の女性相手でも、菊川は上手く自分の願望を口にできなかった。幼少期から、菊川はワガママの仕方や強請り方を知らなかったのだ。それでも、相手はプロだったので菊川の望みを推測して、欲望を満たしてくれた。菊川は激しく鞭で打たれた後に、甘やかされるのを好んだ。菊川は幼少期、母親に厳しく指導された後、褒められて甘やかされることを望んでいたのだ。  ――菊川さんは、もっとワガママになったほうがいいわ。  いつも指名していた女性に言われた言葉だ。  しかし、風俗で性欲は満たせても、心までは満たされることはなかった。    菊川が出会い系サイトに登録したのは、何となくだった。何となく、寂しいと思ったからだ。蝶子にメッセージを送ったのは、たまたま目に留まったからだ。そして、たまたま返事が来たから、会うことになった。  初めて蝶子に会った時、真面目そうな女性だと思った。黒いロングヘアで、服装も清楚な感じで、真面目で大人しい女子大生というのが第一印象だ。「遊び相手が欲しい」というメッセージを送ってきた人間と、同一人物とは思えなかった。  車に乗った時、「どこに行きたいか」と尋ねて、「ホテル」と返された時、少しだけ落胆した。あまりにも蝶子が潔癖な風貌の女性だったため、純粋にデートができると思ってしまったのだ。蝶子は菊川にとって好みのタイプの女性だったので、交際に発展するのではないかと思わず期待してしまった。しかし、すぐに菊川は「遊びだもんな」「今日限りの関係でもいいや」と割り切ることにした。  移動中、菊川は人見知りな性格が災いして、蝶子と会話が上手くできなかった。ホテルに着くと、機嫌を損ねてしまったのではないかと不安になった。どうにか機嫌を取らなければならないと焦り、ベッドに入るとすぐに口淫をした。別れた恋人に、菊川の口淫が気持ちいいと褒められたことがあったからだ。その結果、蝶子は果て、菊川は安堵した。  菊川は蝶子に対して、自身の被虐性を隠そうとした。しかし、彼女に乳首を刺激されたことにより、すぐに露呈した。 「気持ち悪い」と、蝶子に言われるのではないかと不安になった。しかし、蝶子は気持ち悪がるどころか、面白がって菊川で遊び始めた。  ――気持ちいい。  蝶子に組み敷かれたまま、挿入した時に言われた言葉だ。  菊川はこの時、初めて自分が受け入れられたと実感した。性風俗の金銭関係でなく、ただの男女の肉体関係で、自分自身を初めて受け入れられた。  蝶子が求めているのは肉体だけであり、恋愛感情など一切菊川に向けていないことは分かっていた。ただの性的な刺激として楽しんでいるのは分かっていた。直接会う前に、蝶子から男性に対して恋愛感情を抱くことができないと知らされていた。それでも、菊川にとってはそれだけで十分だった。拒絶されない。「気持ち悪い」と言われない。「気持ちいい」と、菊川との行為を褒めてくれる。蝶子を好きになる理由は、それだけで十分だった。  蝶子は頻繁に菊川と会ってくれた。行為の時も、縛ったり言葉責めをしたり、菊川が悦びそうなことをしてくれた。そして、痛いことや苦しいことをした後は、必ず「いい子だね」と言ってご褒美をくれた。そんなふうに気遣ってくれるだけで、菊川は嬉しかった。  ――ごめんね、菊川さん。私、あなたの、恋人にはなれないと思う。  菊川の想いを知って、蝶子は申し訳なさそうに言った。  ――そんなの、気にしないで。僕は、こうして蝶子さんに求められるだけで、幸せだから。  菊川は、蝶子に好いてもらおうとは思っていない。恋人同士になれなくても構わない。肉体だけだったとしても、蝶子に必要とされているだけで、菊川の心が満たされた。自分は、生きる価値のある人間だと思えた。  ただ一つ、菊川が望むのは蝶子に嫌われたくないということだ。  蝶子に嫌われたくないから、「他の男と会わないでほしい」などと言えない。独占欲の強い菊川は、蝶子が他の男に触れられるのを、他の男を求めるのを嫌っている。他の男の痕跡を見つけるだけで、彼は男たちを殺してやりたいとさえ思った。  蝶子の頬に口付ける男の姿を見た時、本気で殺してやろうと思った。あの場に蝶子がいなければ、背を向けて去っていく男を追いかけて、首を絞めていただろう。  しかし、そんなことを直接蝶子に言えない。蝶子に嫌われてしまえば、捨てられてしまえば、菊川はいよいよ自分に価値を見出せなくなってしまう。そうなれば、彼は死んでしまおうと考えている。いや、いっそのこと、捨てられるくらいならば蝶子に殺されたい。彼女の手で、彼女の顔を見ながら死にたい。そんな最期を迎えられたのならば、菊川は自分の人生を「幸せだった」と言えるだろう。
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