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■1.訪問
◆白い旗
気になっていたものがあった。カウンター横の壁には絵がかかっていたのだ。軍服を着た男が、白い旗を高く掲げて、立っている絵だ。写真みたいな妙にリアルな絵だった。そして、軍人が白旗を上げているのに、なんだか、あっちの壁にあるキリストのイコンより神々しい雰囲気だった。当時のあたしは、これが何なのかわからなかった。
「もう、こんなのやりきれない……」
あたしは、子どもの頃、特殊な体質で、変なものが見えたり……かっこつけた言い方をすると、感受性が鋭かったので、よく学校でいじめられた。家族はよくわかんない仕事をしていて、ほとんど不在だったし、稼業のために変な訓練が始まるしで、あたしは、いつも、イライラしていた。
それが高じて、もう少し年齢が行った時、あたしは、ムカつく奴を気ままに、ぶちのめしたりするようになった。その時の事を思い出すと、苦笑いが込み上げてくる。まあ、逃げ足も速かったので、捕まるようなことは無かったけれど…… そんなふうに過ごしていた、ある日、あたしは、ガラーホワさんに出会った。
◆灰色の猫
ある日、あたしは、ぶらぶら歩いていたら、灰色で緑色の目をした猫が、近寄ってきて、あたしをじっと見上げた。灰色の猫は、あたしの足の周りを歩き、体をすり寄せた。体を撫でようとしたら、猫は歩きはじめた。猫は歩き続けて、ガラーホワさんのお店の前で止まった。そして、店のドアをすり抜けていってしまった。猫ドアがあったわけでも、ドアが少し開いていたわけでもない。その猫は、閉じているドアをすり抜けていったのだ。
あたしは不思議なものをよく見ていたので、あんまり驚かなかった。が、でも、そのお店に、とても興味が沸いた。あたしは、ドアを開けてそのお店の中に入っていった。 ガラーホワさんは、驚いた顔もせず、根掘り葉掘り何かを尋ねることもせず、あたしのことを普通、いや特別のお客として、お茶を出してくれて、なんとなく話しかけてくれた。なんで、ガラーホワさんは、あんなにあたしに良くしてくれたのか……
ガキでお金なんかないので、タダで貴重なお茶を飲ませてもらいつつ、あたしは入り浸るようになった。当時のことを思い出すと、あまりにも申し訳無い気がする。しかし、彼女のお陰で、あたしは、思春期の闇を乗り越えられたのは間違いなく、深い感謝しかない。小さくて古い石造りの建物を見上げた。壁にツタが絡みついている、その「ブリーミャ」という看板。何年も、塗装しなおした様子がないのに、ちっとも変わらない。
ドアをくぐると、カランカランという音がした。
「あら……いらっしゃい」とガラーホワさんが迎えてくれた。
ガラーホワさんや店の印象を説明するのは、少し難しい。良い意味での違和感がたくさんある。ガラーホワさんは顔かたちが整っている。まあ、早い話、とても美人だ。外国人なのだが、どういうわけか言葉に外国語なまりがない。あまり日本では見かけないような柄の服を着ているし、店の中も、よくわからない民芸品や珍しい花と観葉植物で飾られている。
それよりも、気になっていたものがあった。カウンター横の壁には絵がかかっていたのだ。軍服を着た男が、白い旗を高く掲げて、立っている絵だ。写真みたいな妙にリアルな絵だった。そして、軍人が白旗を上げているのに、なんだか、あっちの壁にあるキリストのイコンより神々しい雰囲気だった。当時のあたしは、これが何なのかわからなかった。
あの不思議な雰囲気の灰色の猫も、ときどき出て来て、ニャーと挨拶してくれた。これだけ異質なものに囲まれているし、ガラーホワさん自身も異文化の香りが漂っているのに、なんだか、安心して一緒にいられる感じがした。外国人で、こんな変わった人なのに近所の人とも何の違和感も無く挨拶をしてるし、地域に溶け込んでいる。
ただ……ガラーホワさん、今は、一人暮らしになってしまった。
◆人類なんて
「 ご注文は?」
あたしが壁際の席に座ると、ガラーホワさんが聞いてきた。
「あの紅茶をお願いします!」
ガラーホワさんは、にこにこしながら、サモワールで紅茶を沸かし始めた。とても、いい香りがする。しばらくしてから、紅茶と、小さな容器に入れられた果肉がそのままゴロゴロ入っているジャムを彼女が運んできてくれる。あたしは、ジャムを舐めながら、紅茶を飲んだ。とても濃くてコクのある味とジャムがよくマッチしていて、あたしは、これが大好きなのだ。彼女の故郷では、砂糖が貴重だった昔に、こういう飲み方が、始まったのだと彼女は教えてくれた。ジャムを直接入れると、紅茶が冷えてしまい、体が温まらないので、舐めながら飲むのが、一般的なのだそうだ。直接入れるのは、違う地方の習慣らしい。 あたしはため息をついた。
「 どうしたの?」と彼女は言った。
どう言ったらいいのかわからなくて、遠まわしな言い方になってしまった。
「 なんだか、最近起こる事って、凄く身勝手で、なんか、いたたまれなくなることあるじゃないですか……そんなことばっかりじゃないんだとは思うんだけど、それでも、なんだか疲れちゃうときがあって!」
「 あらあら、アヤちゃん、今でも、そんな事を感じる時あるの?」
「 ガラーホワさん! こんな、あたしだって、悩み多き乙女なんですよ? ハル兄に『あたしだって、悩みくらいあるんだぞ!』って言ったら『お腹空いたのか?』って、あんの野郎、失礼にも程がある! あたしのこと、なんだと思っているんだよ、まったく!」
ガラーホワさんは、けらけら笑った。
「 気にするなって言いたかったんじゃないかしら? でも、時には、安心して泣き言を言いたい時もあるわよね。アヤちゃん乱暴なくらい大胆なことするときがよくあるから、本当は繊細なこと、みんな気づいてないのかもね」
「泣き言っていうほどでもないけれど……解決してほしいわけじゃないんです。もやもやすることって、そんなに、簡単に解決することばかりじゃない……ただ、話を聞いて欲しいことってあるじゃないですか。でも、男って、そういうのが苦手みたい……」
また、少しガラーホワさんが笑った。
「 そうねえ。話を聞いてくれない上に、もっともらしい理屈を言う人いるわよね。この間来てくれた年配のお客さんが『そういうのを紅茶野郎って言うんだ』って、教えてくれたわ」
「紅茶野郎?」
「 セイロンだからだって」
「 うわー、親父ギャグ―!」
「 親父ギャグって嫌う人いるけど、でも、日本語って、同じ読み方で違う意味の言葉がたくさんあるから、そういう……洒落言葉っていうの? 私たち外国人からすると、凄く面白いんだけどね」
「 へえー! ところで、ガラーホワさん! あたしが、ここで『人類なんて滅んじゃえばいいのに!』って叫んだ時の事、覚えてます?
「 覚えているわよ? 高校生の頃だったかしら?」
「 あの頃、特に病んでたし、大人の醜さと鈍感さにうんざりしてたんですよね」
「 アヤちゃん、荒れてたわよねー。青春には、ありがちではあるけれど、さすがに、あれは、ちょっと、どうしようかなあと思ったわね」
ガラーホワさんは、くすくすと笑った。
「 ちょうど、この席に、あたしは座っていて……」
あたしが座っている方とは、反対側の壁際の台に、綺麗な刺繍の入った布がかけてあり、あの時と同じように水晶玉が置いてあった。
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