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ハイネ・ヴェルシュミッタは生粋のドイツ人である。
十四歳のとき、とある事情によって日本にやってきてから一年ほどが過ぎたが、今ではすっかり日本の文化圏での生活に慣れ親しんでいる。初めはとても食べられなかった粟や稗のご飯もすいすい胃に入っていき、地味な色身の多い食材の扱いもお手の物。独特の調味料に舌が不満を唱えることもなくなった。パンを食べたくなるときもないわけではないが、一晩寝ればその欲求もどこかへ行ってしまうくらいだ。ジメっとした夏は今でも想像しただけで嫌になるが、冬はドイツほどに厳しくはないので足し引きはゼロになるのだろう。服もドイツから持ってきたものがあるが、最近では着物と袴を身に着けることが多い。ドイツの服よりも身体への締め付けがきつくないというところを、彼女はいたく気に入っているのだ。
この国の人間ではないハイネがどうしてここまで馴染んでいるのかというと、彼女にこの地での生活を教えた「偉大な先達」がいたからである。
ハイネは汲みたての煎茶が入った白いカップを持ってキッチンから出てくるところだった。バランスを上手に取りながら片手で盆を持ち、もう片手で廊下を挟んだ対面にある作業部屋の部屋の扉を開ける。
鼻をうっすらとくすぐる、インクの材料で使われたワインの香り。芳香に満たされた部屋は、辺り一面に紙の束の山、山、山。アルプス山脈も恐れおののくような群山風景。その他にも、家の支柱かと思うほど高く積み上げられた本や、木製の万力のようなものが紙の束の間から見え隠れしている。南を向いた窓から陽光がカーテンをすり抜けて部屋に差し込み、紙と本が落ち着きのある影の暗さをぽつぽつと生み出していた。
そのような部屋の片隅、ドアから最も遠い場所には大きなオークの机があった。そこにも紙の柱が高々と築き上げられていたのだが、その前には一人の人間が木の椅子に座っている。
そこにいるのは一人の少年。見かけはハイネよりも幼く、二桁の年齢にやっと達したくらいだろうか。この少年は日本人離れした高い鼻とシャープな顔立ちを持っているが、それもそのはずで、彼もハイネと同じくドイツの出身である。
昼前の陽光を浴びて輝く金色の短髪と、ハイネよりも長い少女のようなまつ毛。薄手の白いシャツが薄暗い空間にくっきりと浮かび上がっていた。竹を連想するような細い体つきは、そっと触れても簡単に倒れてしまいそうな印象を受ける。
少年はハイネが入ってきたことには気付いた様子がない。彼女に背を向けたまま、黙々ととある作業に徹している。よほど集中しているのだろう。
「トゥくん、お茶を淹れたんだけど、いる……? 置いておこっか?」
紙製の山々を縫ってトゥと呼ばれた少年に近付き声をかけるが、反応はない。ハイネの気配や声、煎茶の香りでさえ少年の集中を切らせることはできなかったということだ。
日に照らされ、部屋全体を漂う埃がよく目に見える。見方を変えれば水の中にいるようだった。
その空間に響くのは、カリカリとトゥが走らせるペン先が擦れる音のみ。
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