冷たい熱帯

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 静かに水が落ちる音と、暖房を効かせるエアコンの動き出した風の音。ゆらゆら闇を泳ぐ熱帯魚の隣で私は、冬の部屋をあともう少し辛抱する。この時期の家の中というのは何故これほどまでに静けさが襲うのか。決して独りではない日々の中でひとりを味わえるこの瞬間を、幸せと思うか寂しいと思うか。自分の鼻から抜ける呼吸音すら耳につく。  熱帯のはずなのに寄り添って箱の世界を泳ぐプリステラが羨ましい。 「あなたはこの世界に気づいてる?」 「あなたは?」 「私は気づいてる」 「なら僕もそうだ。あなたの脳内で生きよう」  私の脳内ではこんなに哀しい会話を繰り広げているように見える。どれだけ泳いで見せたって透明の壁が邪魔をしてどこへも行けないと気づいている一方で、もう一方はもしかしたら海か川だと勘違いしているかもしれないのに、あなたの側ならどの世界も同じだと言ってみせるのだ。  こんなに切なく熱い愛を私は知っているのだろうか。きっと知っているのだろう。いつの日だったか、私は夢の中で泣き、目が覚めても同様に泣き、夕方になっても鮮明に記憶しているほどの熱い恋を感じた。夢と言うのは不思議なもので、自分自身を三者視点で見ている光景が見れる。  私は子供みたいに恥ずかしげもなくぐしゃぐしゃになって泣いていた。強く下唇を噛み、声を押し殺そうとしても漏れ出る呻きのような泣き声で、目の前に同じように立っている女の子を見つめている。歳は同じくらいか、その女の子は何処の誰かも知らない子なのだけれど、私よりは大人の心で生きてきたに違いない。涙を浮かべるものの、頬に零さず声も一切を堪えている。  私らはお互いの心を開示しているかのように読み取りあった。お互いがお互いに対して抱いている好意、それは紛れもなく相思相愛だっただろう。けれど、何か一言でも間違えれば私たちは崩れてしまうのではないかと、まるで心理戦を繰り広げているように空間は無言で静けさだけが騒がしかった。 (一瞬でも目を逸らしたくない)  愛してる、なんてその五文字を口にする時間すら勿体ないと思うほど、もう二度と会えないとわかっている彼女を一秒でも長く目に焼き付けたい。  もう耳は機能していない。何も聞こえない無音の中で鼓動だけが私を殴り、体温は焼けるほど熱くなっている気がした。端から見れば洟を啜る音が交互に聞こえるだけの何も動かない二人。その時間は数分ではなく、数時間が経過していることが何故か理解できた。  こんな異様な恋の絵が華やかに映るのは、二人を見守る枯れた木々が並木道を挟んで見下ろしているからかもしれない。もうすぐ本格的な冬が始まろうとしている世界。数時間分の出来事をほんの二十秒ほどに凝縮した夢を、私は熱帯魚が泳ぐ箱の隣で珈琲を口内いっぱいに含み、鼻から抜ける苦みと共にしみじみ思い出している。肌着の下は気づけば汗ばんで、熱い珈琲も億劫に感じてきた。  身を寄せ合って泳いでいたプリステラは、何事もなかったかのようにそれぞれ違う顔をして尾ビレを向け合っていた。夢の中で見たあの子に、もしも現実世界で会えたとしても、私も何事もなかったかのように忘れて通り過ぎるに違いない。  日常にあるこの一瞬の静けさが魅せた独りの恋物語。ひとりで眠る夜に寄り添ってくれた女の子を、ひとりで思い出し感傷に浸る。まるで自慰行為のように虚しい。だから私は、せめて数年先で懐かしさに浸れるように、恋物語としてこれを小説として置いておこう。そうだ、題名は『静けさの中で』
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