深夜3時のオバサン

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深夜3時のオバサン

これを読んでいるあなたは「自助グループ」というものをご存知だろうか? 同じ問題を抱える人たちが集まり、相互理解や支援をし合うグループを指す言葉だ。 筆者は、ひきこもり・メンタルヘルス関係の自助グループの住み込みスタッフをしていた時期がある。 ーーーーーー その自助グループは、代表者のゴリ氏が、自身の居住する4LDKの部屋を開放する形で「居場所活動」を行っていた。 完全なひきこもり状態から一歩出たいという段階に至った人に向けて、その人の住居とは別の居場所を提供するという試みだ。 当時、「ひきこもり」という言葉が世に出始めた頃で、一括りにされていた事実があるけれど、実際は、精神疾患が有る人も無い人も混在していたし、自宅から出るのを極端に嫌う人も居れば、自宅に居て家族に迷惑をかけている事実を申し訳ないと感じていてそれそのものがストレスになっている人も居た。 代表のゴリ氏自身がひきこもり経験を持っており、自身の障害も公表して活動をしていた。 「これはライフワーク」と言い、営利目的ではなく、実質的にはボランティアだった。 来るもの拒まず去る者追わずの精神で、入れ替わりながら様々な利用者が毎日ゴリ氏の部屋に訪れていた。 ーーーーーー そんなある日の事、ゴリ氏に電話がかかってきた。 それによると、これから母子2名が来るという。 詳しい事情はよくわからないが、1週間ほど滞在させてほしいと言われたそうだ。 ゴリ:「父親に問題があるらしい。」 なんとも雑な状況説明だ。 この人は大体こうだ。 来る者拒まずはいいが、真の問題点を明らかにしない上で受け入れるために、利用者同士でのトラブルが頻繁に起きた。 ゴリ氏自身が問題の当事者となる例は少なかったけれど、それでもそういった出来事はあった。 ならば利用者に根掘り葉掘り尋ねるべきかといえば、それも難しい選択だ。 当人に聞いて真実がわかるとはいえないし、最初から心の傷を抉るような質問を投げかけてしまうのは、心の傷を持った人を再び立たせようとする活動の主旨に反する可能性がある。 自分自身のそれに向き合うのもまたエネルギーが必要で、そのエネルギーが溜まるまで時間がかかるケースは多い。 電話があってから数時間後、その母子がやって来た。 本名を名乗るのに抵抗があったり、名前そのものにストレスを持つ人も居る事から、この場では「ニックネーム」「源氏名」のようなものがルールとして認められている。 母は「イカリヤ」と名乗り、娘は「マミ」と名乗った。 ーーーーーー ゴリ氏と筆者は、この母子に必要事項を確認後、雑談をした。 その後各々の部屋に入って時間を過ごした後、筆者が外に出ようとした時、異変に気が付いた。 靴がびしょびしょに濡れていたのだ。 周囲を見ると、室内用スリッパも全部濡れていた。 玄関や風呂場のドアノブ、テーブルやコップも濡れていた。 何事かと思い臭いを嗅いだところ、アルコールの刺激臭がした。 マミ:「あ、私です...ごめんなさい...。」 筆者の様子に気付いたマミ氏が、これを行ったのが自分であると言って来た。 潔癖症なのか、とすぐに察した。 自分が「汚い」と感じた物に対して、アルコールスプレーをかけまくって消毒しないと気が済まないらしい。 筆者:「いいんだよ。『でももしかしたら気にする程でもないのかもしれない』ぐらいに思えたらいいって私は思うよ。」 そう返事しておいた。 マミ氏は、表情の変化が無いまま「はい...そうですね...」と、回答があった。 こういう症状について、ゴリ氏からは、「否定して良い事はあまりないんだ。」と言われていた。 「他人に迷惑をかける行動だと思って否定しがちだけど、それは本人もわかってる場合が多くて、かえってストレスになって悪化したりするからね。」と重ねて言われていたので、この種の行動を見た時でも、当人を責めないように努めていた。 しかし、他の利用者の所有物にまでアルコールをかけまくられるのはよろしくないんじゃないかなあ...と思ったので、どこかでゴリ氏とちゃんと話し合うべきだと考えつつ、とりあえず1日様子を見る事にした。 夕方になると、「通い」の利用者が増えて来る。 好きな時間に好きなように来て、泊まったり帰ったりしてもいい、それがゴリ氏のやり方で、自由さと緩さが、普段心の圧迫に苦しんでいる利用者の助けになっていた。 そんな「通い」の利用者に囲まれ、マミ氏がどうなるか気になっていたけれど、意外な事に、すぐに環境に適応したようで、言葉は少ないながら会話や雰囲気を楽しんでいるのが見て取れた。 最初は他人の所持品にもアルコールスプレーをかけたがっていて、許可を得た上で消毒させてもらっていた。 しかし、そうした行動も、徐々に減っていった。 ーーーーーー 母子が一泊した翌朝、筆者と同じぐらいの時刻にマミ氏も起きた。 少々会話して、朝食を買いに外に出ようとしたところ、昨日と違い靴は濡れていなかった。 マミ氏も、アルコールスプレーを撒く様子は見られなかった。 たった1日の滞在で、そこまで変わるものなのかと驚いた。 マミ氏の母親であるイカリヤ氏は、昨日は到着後、この日は我々が起きるより早く、朝からどこかに出かけていた。 問題となっている、マミ氏の父であり、イカリヤ氏の夫について、何らかの解決を求めて奔走しているのだろうと考えていた。 昨日、日が暮れてから部屋に戻って来たイカリヤ氏は、通いの利用者の方々の雑談に参加していた。 この日もそうで、特に問題無くそれなりに楽しそうに会話に加わっていた。 筆者はこれまでにも母子家庭の問題に何件か関わってきた経験があった。 そうした家庭においては、母が娘に対して過干渉で、支配的な振る舞いをする事が多かった。 マミ氏の挙動を見るに、どこか母親を恐れていそうな雰囲気が感じられたが、2日目のこの雑談時にはそういった影も薄れていた。 このまま順調に良い方向に進みそうだと、ゴリ氏やスタッフも安心しつつあった。 ところが、通いの利用者が帰り、母子とゴリ氏と筆者、それと成り行きでそのまま泊まる事になった利用者1名が寝静まった深夜3時、異変は起きた。 ??:「もるぁむあ!あるぃおあけんなぉお!!」 突然、部屋に大声が響いた。 何か揉め事が起きたのかと、筆者は寝室から出て声がする方に向かった。 するとそこには、イカリヤ氏の姿があった。 その斜め右に、前述の利用者の男性が1人居た。 ほどなくして、ゴリ氏も起きて部屋から出て来た。 イカリヤ氏と男性の間で何か揉め事があったのかと思い、私はその男性に尋ねた。 すると... 男性:「いや、僕も叫び声がして起きて、来てみたらこの状況でした。」 え? なんだそれ、どういう事だ? イカリヤ氏に話しかけようとしてその正面に回ってみて、気が付いた。 イカリヤ氏は、その男性にも、筆者にも、目を向けていないのだ。 そして、どこかわからない1点を見て、また叫んだ。 イカ:「オバサンはゴミ箱じゃないのよ!!!!」 何を言っているんだこの人は? 誰にそんな事言われたんだ? っていうかそんな事言う人この場に居なかったし...。 ゴリ:「あの、深夜なので、静かにしていただけませんか?」 代表として、ゴリ氏が当たり前の事をイカリヤ氏に言う。 しかしイカリヤ氏は見向きもせずに... イカ:「それがどうしたっていうのよ!!オバサンはぶべらばべらァ!!」 よくわからない事を再び叫んだ。 後半はイマイチ聞き取れなかった。 このタイミングで、マミ氏も部屋から出て来た。 申し訳なさそうに下を向いている。 ゴリ:「あの、話は聞きますんで、今は静かにしていただけませんか?」 ゴリ氏は重ねてイカリヤ氏に言う。 睡眠を阻害されて、ゴリ氏は明らかに不機嫌そうではあったが、そこは代表としての責任感からか、努めて冷静に話しかけているように見えた。 私はマミ氏に小声で訊いた。 筆者:「以前からこんな事があったの?」 マミ:「よく...わからない...。」 マミ氏からの返答を受け、筆者の方がよくわからなくなった。 いやいや、以前からあったのかどうか聞いているんだが、わからないって事は、無かったわけか? 重ねて問うのもなんだかなあ、と思っていたら... イカ:「なんなのよォ!!さっきからずっとォ!!だからどうだって言うのよォ!!」 また叫び声を上げた。 最早我々では事態収拾不可能だと思った。 この部屋はかなり防音が良いとはいえ、これほどの叫び声は近隣の部屋の住民への迷惑行為となりかねない。 筆者:「ゴリさん、警察呼びましょう。」 ーーーーーー ゴリ:「ちょっと...これは...」 ゴリ氏も、酔って暴れる人は見てきたが、突然意味不明に叫ぶ人に対処した経験は無いらしい。 ゴリ:「警察は、まだそういう段階じゃない。俺がなんとかするよ。」 ゴリ:「暴れたりするようなら、サポートクリニックに電話。」 ゴリ氏もスタッフも、医療関係者ではない。 同じような経験を持つ仲間としてここに居る。 専門家のサポートが必要な時、呼び出しに応じてくれるクリニックがあり、普段からゴリ氏はそこの院長とやり取りしている。 こういう症状は経験が無く、対処の判断が難しい。 だから、深夜でもOKと言われているクリニックに電話して、判断を仰ごうというのだ。 イカ:「好きにしていいわけじゃないのよ!!あなたがどぶらばべぶらァ!!」 イカリヤ氏は、さっきと違い、今度は振り向きながら意味不明な叫びを上げた。 これにゴリ氏がムッとして、怒りのスイッチが入ってしまった。 ゴリ:「いい加減にしてください!さっきから何ですか!」 と言い、イカリヤ氏の肩を掴んで、寝室に押し込もうとした。 するとそれをイカリヤ氏は強く振り払い... イカ:「もう帰る!!帰ります!!こんな所居られるか!!」 と大声で吐き捨てて、乱暴に寝室のドアを閉めた。 ゴリ氏がドアに手を挟まれていないか心配になったが、大丈夫との事。 「帰る」と言い放ってはいるが、そう言いつつ寝室に立て籠もる例もあるだけに、ゴリ氏はここでサポートクリニックに電話を入れた。 マミ氏は寝室に入るべきかどうか迷っている様子。 筆者:「今は危ない。君はここに居ていいんだよ。」 筆者がマミ氏にそう言うと、マミ氏は小さく頷いた。 寝室のドアが閉まってから、数分の時間が流れた。 電話を終えたゴリ氏が、寝室のドアをノックし、中に居るイカリヤ氏に話しかける。 ゴリ:「イカリヤさん、入ってもいいですか?」 返事は無い。 ちょっと間を開け、ゴリ氏が再びドアをノックしようとした時、そのドアは勢いよく開け放たれた。 イカ:「マミ!帰るよ!」 イカリヤ氏は、荷物をまとめて持ち、空いた手でマミ氏を強引に掴んで玄関へ引っ張った。 マミ氏は最初だけ弱く抵抗した。 男性:「おいちょっと待てや!マミさん関係無いだろ!!」 この状況に巻き込まれた利用者男性が怒りの声を上げる。 しかしそれを無視したイカリヤ氏は玄関を開け、強引にマミ氏を連れ去った。 男性:「マミさんはおまえの道具じゃねえぞ!!」 そう言いながらその男性がすぐに追いかけようとしたところを、「サポートクリニックの先生がもうすぐ来る」と言ってゴリ氏は制止した。 ほぼ確実に屋外での揉め事になるこの状況において、自分達で追いかけるべきかどうか逡巡したのだ。 筆者:「迷っている間に、マミさんは連れて行かれてしまいますよ?」 ゴリ:「実の親子だから、それを他人の我々がどうこうする事はできない。」 筆者:「だからってこのまま行かせていいんですか?」 ゴリ氏は少し考え... 利用者男性に部屋に残るように言い、サポートクリニックの先生が部屋に来た際の応対をお願いし、筆者と共に母子を追う決断をした。 この迷っている間の時間で、母子を乗せたエレベーターは1階に到達してしまっていた。 筆者は階段を駆け下りた。 エレベーターを利用したゴリ氏よりも早く1階に到達した。 しかし、そこに母子の姿は無かった。 周囲を探すも、それらしき姿は無い。 10数秒後にエレベーターで到着したゴリ氏も筆者と反対方向を探したが、やはり母子は見付からなかった。
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