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「水族館? 何で?」
二度驚いた。行きたいという場所がそこだったことにも。
「真冬だよ?」
俺の中では水族館って夏のイメージだ。
「いいだろ、冬だって」
否定も肯定もできない。「?」マークが頭いっぱいに浮かぶ。
「まずは腹ごしらえだな」
千秋さんは伸びをする。疲れよりもリラックスしている様子を感じて、俺はなんだかほっとする。
「食べたい物ある?」
腰を屈めて俺の顔をのぞき込む。
ち、近いよ。
花じゃなくて、瑞々しい緑の潔い香り。うっすらと、でも確実に千秋さんの匂いだ。俺はそのぶん、体を引く。引いてしまう。
「何でもい…、」
千秋さんは俺の目の奥をのぞく。
まただ。何でもいい、は良くないのに。
下唇を噛んで、俺は思いきり困る。
「えぇっと…」
だめだ、何も思い浮かばない。
どうせ緊張してあまり食べられないし、味もよくわからない、いつも。
何でもいい、ではなく、千秋さんとなら何でもしたい、の意味なんだけど、と思いながら。
やがて、声を上げて笑いながら千秋さんも身を引く。
「この近くに、いい店知ってるんだ」
「えっ…」
さっさと歩いて行ってしまう。
その後ろ姿で、やっと気が付く。
からかわれている。
「…もうっ」
追いかけて、こちらに差し出された大きな手をあわててつかむ。
「いいかげん機嫌直せよー」
菜の花とイカのパスタはフォークにぐるぐる巻きにされて、仏頂面で食べられた。
大きな窓と、飴色の艶をもった壁やテーブル。奥に向かって細長くせまい店内は、隠れ家の雰囲気で好ましかったけれども。
「ほら、これ食って」
千秋さんはゴルゴンゾーラとくるみとはちみつのピザで俺を釣ろうとする。
食べ物なんかで!
しかも千秋さんは楽しそうで、明らかにこの状況を面白がっている。
待ち合わせした駅から3つ隣の駅。大きな公園の中に横長い銀色の建物。ガラス張りのドームが特徴的だ。
水族館に向かって歩き始めても、俺はまだ怒っていた。
「だって…」
俺は昨日眠れないくらいだったのに。
千秋さんはきっと、仕事から帰って疲れて眠って、その辺にあった服をさっと羽織って鼻歌うたったりしながら、気軽に、家を出て来たんだろうなあと思った。
会社に行くときの方がよっぽど気合を入れているんじゃないだろうか。千秋さんは仕事が好きだから。
「だって意地悪なんだもん」
俺の気も知らないで。
余裕しゃくしゃくって感じでさ。
「ひーかーる」
頬を突つかれるので、ぷいと横を向いてやる。
千秋さんはあきらめて、俺から少しだけ離れる。
「俺も会いたかったよ。光に」
“俺も”。
千秋さんをうかがい見る。
こっちを見てる。
急に真面目な顔。なぜだか少しさみしそうにすら見える。
「2人でさ、ゆっくり。食事してベタな場所行って」
「…本当に?」
「ほんとだよ」
再び差し出された手には、まだ触れない。
ふいに千秋さんは空を見上げてつぶやく。
「デート日和だな」
「…デ…っ」
唐突さに思わず動揺する。付き合っているのにそれもどうかと思うけれど、あまり口には出さない類いの単語だと思う。
「なに、ゆって…」
その隙に千秋さんは俺の空いた手をすくうように取って、今日はもう離さないからなと言った。
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