99人が本棚に入れています
本棚に追加
「飲み物持って来る。待ってて」
なんとなく、部屋に入らないで窓ガラス越しに千秋さんを見ていた。
スーツのジャケットを脱いでネクタイを外して袖をまくる。ジムの会員になったけどあまり通えていない千秋さんの腕は、充分に筋肉質に見える。
やがてマグカップを渡される。寒さの中で、もくもくと湯気が上がっている。
「ココア?」
「インスタントだけどな」
千秋さん、甘い飲み物って好きじゃないのに。
俺のために用意してくれたのだろうか。
甘くてちょっとスパイシーな香りのする湯気に顔を隠す。
千秋さんは缶ビールをひとくち飲むと、手すりに肘をかける。
「俺もお酒飲みたい」
「お酒は二十歳になってから」
軽く節をつけて低く、歌うようにやんわりと言う。
「ありがとう」
「何が?」
「昨日さ」
もう酔いが回ったのだろうか。
「千秋さんが喜ぶようなこと何もしてない、俺」
「紙袋も紐も、取っておくから」
「紐っていうかリボンだけど…」
「そうなのか?」
千秋さんは俺が知っていることを知らなくて、俺が知らないことをたくさん知っている。
ココアは舌がやけどしそうなほど熱かった。
俺がくしゃみを続けて2回したので、室内に戻るよう促される。
ソファで千秋さんは2本目のビールを開ける。
俺は千秋さんの隣には座れない。
ローテーブルの近く、何もない床に腰を下ろして、スマホで明日の講義の確認をしているふりをする。
「明日、1限から?」
「うん」
近付いていいのか迷って、近付けない。
自分からいくのは気恥ずかしいし、千秋さんがどう思っているのかわからない。
昨夜のあの勢いはどこへいったのだろう。
怒っているあいだなら、何でも言えるのに。
それ以外の感情はうまく伝えられない。
千秋さんもスマホを取り出す。
もうすぐ11時なのだと思う。いつもどおり。
「タクシー呼んだから」
「…わかった」
「下まで送る」
また俺は手を引いて連れて行かれる。
「今度、チョコレートのカレーっての食べに行こうよ。会社の奴に聞いた」
「おいしいのかな」
「きっとおいしいよ」
エレベーターはあっという間に1階に着く。着いてしまう。
頭のてっぺんにもう一度、かるく触れられる。指で髪をすく。それから、背中に手を添えタクシーに乗り込ませる。いつも同じ流れ。
ドアが閉まる前に、1万円札を渡される。
これまでも何度も断った。そもそもまだ終電もある。けれどその都度、手のひらにねじこまれてしまう。
行き先を運転手に告げるのは、以前にやめてもらった。さすがにそのくらいは自分でできる。
そして他にもできることはたくさんあるんだけど、俺は。
「家に着いたら電話して」
まるで俺が山奥にぽつんと建つ一軒家にでも帰るような口ぶりだ。実際は同じ東京、タクシーで数十分間の距離なのに。
千秋さん自身によって、千秋さんから離れさせられてしまう、毎夜。
そんなことをされたら、抗えない。
俺はまだ知らない。
千秋さんの指がどんなふうに触れるのかを。唇の温度を。
最初のコメントを投稿しよう!