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チョコレートは高温になると
合格祝いをしよう。それから、18歳の誕生祝いも。
トレイを胸に抱えて、そのとき俺はとびきりきょとんとした顔をしていたに違いなかった。
東京って、せまい。
一昨年、夏。
志望校を絞りきれず、いくつかの大学のオープンキャンパスを回っていた。
都内に住む親戚の家に泊まって、そこの同い年のいとこといっしょに行動すると約束して、やっと親に許可と交通費をもらえた。
模擬授業を受け、サークル活動のブースをのぞく。
ちょうど人が途切れたタイミングだったようで、大学生は矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「早生まれだからまだ17です」
「ええー、若っ!」
「N県から来たんだ。ウチは地方出身者の方が多いから、アパートやバイトはすぐに見つかるよ」
研究テーマに沿った英語の文献を読み込んで議論するという活動をしているサークル。
たくさん酒が飲めて口が上手くないとだめだぜ、とその学生が言うと、周囲がどっと笑った。
いとこと俺は、大量のパンプレットやチラシを持って、熱量に圧倒される。
親に命じられたとおり、高校の制服を着て。
都心の地下鉄も繁華街も、同じ日本とは思えないくらい、田舎とは別の世界だった。
「こらお前ら、あんまりおどかすなよ。入学してくれなくなっちゃうだろうが」
低音だけど、よく通る声。
そのひとは、ねえ? と笑いながら俺を見て言った。
背が高くて、高校生とも父親とも学校の先生たちとも違う、スーツの上からでも筋肉がついているとわかる体つき。いたずらっぽい目。
二階堂先輩と呼ばれていた。
そのサークルのOBで、たまに教授に顔を見せに来るのだと言っていた。そうしたら運悪くこいつらに捕まってさ、と。
「先輩、コネないんすか、コネ」
「俺にそんな権限ねえよ」
街中ですれ違う以外で俺が初めて会った、東京で働く人。
ゴールデンウィークが明け、新生活にはまだ慣れていなかったけれど、俺は「S&W」でアルバイトを始めた。
注文を聞くためにテーブルの傍らに立ったとき。
「あれっ…」
そのお客様が声を上げた。
M大で会った、と言う。一拍遅れて記憶がよみがえる。
スーツ姿で壁に寄りかかって、腕を組んで微笑みながら後輩たちを眺めていたひと。
「受かった?」
あのときは眼鏡をしていなかった。
「あー…すみません、結局Mは受けなかったんです」
結局、元々第一志望だったところを受けた。そして運良く受かった。
よくしていただいたのにすみません、と俺は借り物のような敬語で答えたっけ。
「はは、謝ることはないよ。でも、いずれにせよこっちに来たんだ」
「はい」
おめでとう、と俺の目をまっすぐ見る。
切れ長の、一見鋭いけれど奥に柔らかさを宿した瞳。
東京に迎え入れられたような気がした。少しだけ。
それから?
俺は泡立て器で卵の白身を撹拌する。電動泡立て器は使わない。
そしてそれから。
千秋さんは何回か店にコーヒーを飲みに来てくれた。
来てくれた、というのはうぬぼれかもしれない。
だって俺とほぼ話さずにノートパソコンを広げているときもよくあったから。
バイト上がるの何時、って聞かれたんだった。
泡立て器がボウルの底にがちがちと音を立てて当たる。
単純作業は無心になれるとよく言うけれど、俺の場合はひとつのことを繰り返し思い出す。
あの頃の方がなめらかに話せていたように思う。お客様とバイト店員という関係性だったから。
じゃ、今は?
俺は馬鹿正直に、9時ですって答えた。聞かれたからそう答えた。
「合格祝いをしよう。遅くなったけど」
千秋さんは言った。
「それから、18歳の誕生日も」
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