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頼むね、と三宅さんは片手を顔の前に立てて、拝むポーズをしてみせた。
カッティングボードにスケールを置き、食パンにナイフを当てる。
バタートースト用だから厚さ4センチ。表面に網目状の切れ込みを入れる。
載せるバターの量と、トースターの火加減は三宅さんの領分だ。
近所の中古レコード店の店主から、デリバリーを頼まれたようだ。電話口の様子でわかった。昔からの馴染客で、三宅さんとは同世代だそうだ。
ナポリタンの具材の玉ねぎ、ピーマン、ウインナーをあらかじめ切っておく。ゆで卵を剥いて保存容器に入れる。トッピングに使ったり、潰してマヨネーズと和える。
「料理はしないの?」
俺の手元をしばらく見つめて、三宅さんがたずねる。
要領が悪かっただろうか。
「ひとり暮らしだから、うどんやチャーハンは作りますけど…その程度です」
お菓子作りのように材料や道具を一からそろえて、とはしない。
朝昼晩の食事は「必要なもの」だ。
それと比べて、チョコレートは人生や生活にとって、まったく必要ではない、余分。
必要のないものを作って、それを千秋さんが食べる。それが俺にとっては意味があるような気がする。食事だったら腹が減れば食べるけれど、チョコレートは違う。義務じゃない。
「あれだけ作れるなら、料理もいけると思うけどなあ」
この店でも何度か、あてどなく作ったお菓子を配った。
さしづめ俺は、唐突に趣味の「スイーツ」を配るバイト君だ。
三宅さんの左手の薬指にはリングが嵌っている。奥さんと2人暮らしで、奥さんは会社勤めをしていて店の経営には口出ししないそうだ。
「…今はお菓子だけでいいです。あ、もちろんバイトとして料理の補助はしますけど」
三宅さんは俺を見て、何も言わずに少し笑った。
外は雨で、明日は土曜日だ。
気温が比較的高いから、体を芯から冷やす雨ではない。しっとりと、絡みつくような雨だ。
明日の天気は2、3日前からもう何度も確かめた。晴れるらしい。
千秋さんに会える土曜日。
「…客、来ねえなあ」
三宅さんが、わざとくだけた調子でつぶやいたのがおかしくて、少し笑う。
「夜になれば来ますよ」
「準備した材料が無駄になるのは避けたいからねえ」
通り雨なら、雨宿りの来客が見込めるけれど、こう朝から降り続いては皆帰宅を急ぐ。
三宅さんは水をフラスコに入れ、アルコールランプに火を点ける。
濾過機をロートの中心に据える。
「とびきり濃くて甘いカフェモカでも淹れよう」
「え?」
「チョコレートシロップ、好きなだけ入れて」
湯が沸騰するかすかな音と、雨の音が重なる。
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