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甘い物が苦手な男性には
甘い物が苦手な男性には、カカオの風味豊かな、ビターで大人なデザートを。
って書いてあったよ、俺が読んだレシピ本にはね。
それなのに。
オートロックを他の住人の後ろについて通り抜けるのは絶対にやめろって千秋さんには口をすっぱくして言われたけれど、今は関係ない。
だってそんなことをするはめになったのは、千秋さんのせいだから。
7階の5号室。数回しか上がらせてもらったことがないからこそ鮮明に記憶していた。
ドアの前に立ったとき、いや、近付いたときからすでに違和感はあった。
傘が窓の縁に引っかけてある。
その傘はチャコールグレーで、柄は華奢だった。
生活感が出るし生地が傷むから、傘を外に置くのは嫌だって言ってたのに。
ドアの横には縦に細長い窓があって、白いレースがひらひらしている。窓辺には、何か(おそらく犬)のマスコットがちょこんと置かれている。
これは…どういうことだ。
そういうこと、だろ。
考えるまでもなかった。
俺は即座にポケットからスマホを取り出す。
さっきは、何回かけても出なかった。
『もしもし?』
3コールで出た。
「今! どこにいるんだよ⁉」
『どこって…家で光を待ってる』
いけしゃあしゃあと、そう答えた。
「俺も今千秋さんちの真ん前にいるんだけど?」
俺“も”、を強調して、できるだけ嫌味ったらしく言ってやる。
『インターホンは押したか?』
「勝手に入った」
『…光。やめろって言っただろう? 不法侵入になるぞ、もし何か問題になったら…』
こんなときまで正論をのたまう。
スマホ越しに、がさごそと雑音が聞こえる。
『…いないぞ』
「ドアの前にいるよ」
『え? でも…。階を間違えていないか?』
小芝居なんかされると虚しくなるからやめてほしかった。
「ずいぶん、模様替えしたみたいじゃん」
誰の影響で?
『ああ、そりゃあ』
認めるのかよ。
『引っ越しを機にいろいろ捨てたし、新しい部屋にはサイズが合わない物もあるから』
「………。」
『………。』
「…引っ越し?」
『どこにいるんだ? まさか前のマンション…』
画面を見もしないで、通話を切る。
すぐに折り返してかかってきた。
『迎えに行くから』
俺は迷子の子どもか。迷子にさせたのは誰だと思ってるんだよ。
「…いいよ、もう」
感情や勢いがすうっと引いて、まったく別種の、冷たくて硬いかたまりに変化する。
手に提げた紙袋を、見知らぬ705号室のドアノブに引っ掛けて帰ろうかと思う。
深みのある青の紙袋の色味まで、専門店や雑貨屋を回ってあれこれした末に選んだんだけどね。
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