芍薬の衝動

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 満員電車で身動きがとれなくなっている男の名は、大谷庄次である。大谷は先頭車両の中心部にいる。中心部は、最も不愉快でかつ危険な場所である。手すりも吊り革もない。周りの乗客に翻弄されながら、靴の大きさ分だけの領地を確保する。  大谷は今日に限って、この車両に乗っている。乗り換えが間に合わないからである。今朝、大谷の妻は体調が悪かった。大谷はギリギリまで看病し、家事を済ませた。ネクタイをつける時間も惜しんで家を出たため、ネクタイはカバンの中で悠々と寝ていた。大谷の両隣と背後では、サラリーマン風の男が身体を押し付け合っている。ここには何も生じない。男たちが押し合うストレスは、社会の荒波がさらうのみである。  問題は、大谷のすぐ正面に、制服を着た女子高生がいる事実である。  その女も、普段から先頭車両を利用しているわけではない。今日という日を恐れ、昨日にしがみついた結果である。昨夜の二時間を今朝の十五分と交換した代償。昨夜恋人に電話で告げられた別れは、規則正しい生活をする女を変えた。元彼とまた会う苦痛。浮気された側がなぜ悩まねばならないのだろう。言いにくいことを電話でしか言えない男に腹が立った。そして何より、あんな男だと見抜けなかった自分が虚しい。真っ暗になった世界にあってなお見える日常の風景に、腫れぼったい目を携えながら、女はさらなる暗闇を求めた。  大谷がいつもの始発に乗っていれば、女が二本前の電車に乗っていれば、二人は出遭わなかったのである。しかし今、二人の身体は密着している。女の肩甲骨は大谷の胸下に当たっている。女の黒髪は天然の艶やかさを備えている。  大谷は、女の後頭部から訪れる芍薬の香りに、懐かしさと興奮を覚えた。大谷には懐かしさの理由がわからなかったし、女も懐かしさを意図したわけではない。だが大谷には懐かしさを感じる権利があるし、女にも、気に入った香りをまとう権利があるのである。  大谷は右脇でカバンを抱え、右手で底を支えた。左手は必死に側面を掴んでいる。左の前腕は女の肩甲骨と臀部の間におさまっている。おさまっているという言葉は、動かないことを意味しない。背骨の湾曲が偶然にも大谷の前腕を位置させたということであり、「背骨が彼を迎えた」という言葉を使うのは適切でない。  今日もし痴漢されたら、絶対に突き出してやる。  女は心に決めていた。元彼は今日も、同じ学校で同じ空気を吸うのだろう。行きたくもない学校に行かなくて済むなら、ちょうどよい言い訳だ。犯罪に巻き込まれたという同情がもらえるうえに、雪辱を晴らせる。  今まで痴漢にあっても黙って我慢してきたが、今日は許さない。男という生き物が許せない。電車で痴漢しておきながら、何食わぬ顔で仕事しているのだろうか。  いまさらだが、今まで見逃してきた痴漢たちが気の毒になってきた。本当は、人生が崩壊するはずの人間たちだったはずだ。壊れてしかるべき世界を、一個人が我慢し維持することは、破壊の神への冒涜ではなかろうか。  女は、世界を維持する意地を捨て、創造と手を結んだ。  女に立ちはだかる暗い現実は、明るい未来に照らされる影に過ぎないのだ。  朝日が雲に遮られがちな午前八時。  乗客を揺らすことに慣れた電車ですら、女の覚悟に震えていた。女の腰に当たる腕がもし下方へ移動するなら、喉元に待機した叫び声は、元彼への恨みすら轢き殺すであろう。  大谷のストレスが頂点に達していた事実は、痴漢を許す免罪符にはならない。その前提にあってなお伝えるとすれば、大谷は別人格を育てすぎていた。妻を支える自分、責任ある管理職としての自分、友人に頼られる自分……。自分という名の世間にまみれてしまった大谷を見つけるには、高層ビル群を吹き抜ける風に止んでもらわねばならない。  大谷の主体性が風前の灯火を見せていたのは、高校生の時である。二つの自転車が並ぶ夕方、大谷は将来結婚する智子へ告白した。智子にとって大谷の真っ直ぐな告白は、崩れつつある心を保つ芯となった。二人は交際を始めた。舞い上がる大谷が我を忘れたとしても、その忘れものをそっと拾っているのが智子であった。大谷には秩序の崩壊を嗅ぎ取る嗅覚がある。かつての大谷は、崩壊を受け入れる自然とともにあった。崩壊しても、作り上げる喜びがあった。しかし今その嗅覚は、崩壊を避けるために使われている。  智子は精神を病みやすかった。早産した子を一ヶ月で亡くしてから、鬱が加速した。大谷は智子の世話をしているうちに、自分の鬱にふたをしてしまった。ところどころに穴のある、不完全なふたである。そのふたから漏れ出る鬱の欠片には、亡くした子の幻影が浮かんでいた。  大谷は家庭においてもっぱら支える役割を担っている。自分がしっかりせねばならないと思えば思うほど、他人に身を委ねることができなくなっていた。しかし、大谷にとって必要だったのは、心を消化してくれる人間ではなかった。肥大した心を砕いてくれる人間だった。大きすぎる心は、他人に消化しきれないのである。  大谷の左前腕が、芍薬の香りを撫でるようにして、数ミリ下へ移動した。  大谷は人生の崩壊を望んでいない。無事に逃げられるとも思っていない。望んでいたのは、一つの何かが終わり、一つの何かが始まる営みである。始まりと終わりの繰り返しが停止し、始まりと終わりが切断された世界で生きることは、大谷にとって耐え難かった。  腕が動いた数ミリは、女の神経を刺激するのに十分であった。女は、この日が来ることを待っていたという気さえした。背後の男の挙動は、不自然である。しかしまだ、偶然かもしれないという疑いの気持ちもわずかにあった。近所にある大好きなパン屋が空き地になることよりも、この数ミリが女の世界を揺さぶった。  駅間が長いこの電車の中で、左手の甲がいよいよ女の臀部に触れた。  大谷は性欲を抑えられなかったのではない。智子の精神状態がどうであっても、智子との関係は上手くいっているし、同僚の女性から誘われるほどの男前なのである。  大谷の行為は、女性への欲望とは別にあった。大谷自身でさえ、自分の行為の理由を説明できなかった。激しい罪悪感に襲われるとともに、自己を軽蔑した。しかし、手の動きを止めることはできなかった。  すりきりまで水の入ったコップは、こぼれていないと言えるのだろうか。  大切な人に変わらぬ日常を送ってほしい。そんな願いが心の膜を破る時、そこからあふれ出るのは大切な人の涙ではないか。  電車がひまわり畑のそばを通過した。普段の大谷であれば、太陽とはぐれたひまわりを眺めながら、一日の仕事を考えている。ひまわりは一日という区切りも、咲くという言葉も知らなかったが、それでよかった。いつも太陽を待つばかりで、大谷の視線に気づくこともない。初めて太陽と出会い、初めて太陽と別れる一日を繰り返した。  大谷にとって、目を瞑っていてもわかることがある。目の前の女から届く芍薬の匂いである。左手の甲を引っくり返していないのは、懐かしさの理由を探していたからだ。理由が持つぬくもりに包まれていたなら、大谷が乗る電車の音は、母親が子をあやす子守唄に変化したかもしれない。  女は迷っていた。覚悟を決めたはずだと考えていた。  現実には、揺れることすらできない圧迫の車内で、元彼の顔ばかり想像した。もはや不安を解消してくれる人でないことはわかっている。それでも助けを求めてしまうのは、元彼が残した轍の上を、不安が辿るからである。  次の停車駅で、背後の男を駅員に突き出すべきだろうか。  やはり今日も、我慢するべきだろうか。  女の通学カバンは、前方の男の背中と自分のみぞおちとの間に挟まっていた。カバンについたキーホルダーは、今年の誕生日に元彼からもらったプレゼントである。キーホルダーには猫のぬいぐるみがついていたが、その猫も頬がつぶれ、この満員電車にふさわしい乗客となっている。  大谷がもし懐かしさの理由を取り戻し、手を止めていたなら、これ以上物語が進む必要はない。  しかし大谷は手の甲を返し手のひらで女の臀部に触れようとしているし、女は迷いながらもやはり今日こそ男への復讐を果たすべきだと考えている。お互いにとって、お互いの行為は今日でなくてもよかった。今日起きることが今日でなくてもよかった。満員電車を操る運転士なら知っているかもしれない。「今日でなくてもよい」という積み重ねが、今日をつくっているということを。  大谷の手のひらが女の臀部に触れた。  偶然のせいにはできない。  人間にどこまで意思があるのかは置いておくにしても、意思ある行為にちがいない。  大谷は、求めていたものにようやくありつけた。それは臀部ではなく、恐怖が支配する心に潜む、かすかな安堵の存在である。この種の安堵に抱擁されんがために、満員電車という装置に頼り、使い捨ての恐怖を量産したのだ。  大谷の左隣にいる男が、大谷の痴漢行為に気がついた。この男の名は立花薫といい、以前にも痴漢を捕まえたことがある。  立花は、また痴漢を見つけてしまったと、後悔した。自分の知らないところでしてくれたらいいものの、見つけてしまった以上、見逃すわけにはいかない。  痴漢されている女子高生の背中が怯えているように見えた。この時間の満員電車に乗れば、痴漢されるリスクが増えると分かっているだろうに、という思いもあった。しかし、乗りたくて乗っている満員電車ではないはずだし、仮に乗らないという選択肢があったとしても、選び取れる自由はないのかもしれない。自由とは、選択肢の多さではなく、選択肢を掴み取る握力のことを言うからだ。  彼女がもし「痴漢です」と声をあげるなら、次の停車駅で確実に駅員へ引き渡そう。  立花はそう心に決めた。  知らないふりをしたくてもできない立花にとって、一日一日が生成と消失であった。  車内アナウンスが流れる。車両はまるで、酸素の不足した水槽のようであった。酸素を欲する金魚のように、口をぱくぱくさせる乗客たち。まもなく着くという言葉が淡い酸素となり、車内に広がる。  数分前に通過したひまわり畑のひまわりたちは、もう会えないかと思っていた太陽との再会に喜んでいた。  次の停車駅まで、残り三分となった。  女は大谷の手のひらよりも、指の密着が気になっている。動く気配を感じなかったため、ただそこに指があるように思った。きっとこの男の恐怖心が、指の動きを絡め取っているのだろう。  そんなに怖いなら、触らなければいいのに。女は男の指の硬直に同情する一方で、その硬直をもたらした時代が嫌になった。引っ叩けば終わる時代もあったらしい。相手が悪いことをした、だから殴ってやった。今、そんな主張は通じない。  相手を許すために殴ったとしても、こちらが逮捕されてしまう。そうして人が人と向き合うことをやめたから、過ちを犯した人を犯罪者にするしかなくなった。引っ叩いて、終わりにできる時代に生まれたかった。女の感じる歯がゆさが増すにつれて、大谷の鼻腔を流れる芍薬の匂いは強くなるのであった。  終わらせ方を見失った時代と、終わりを望んだ男との溝は、法律が埋めるしかないのであろうか。  大谷に一つの終わりを与えるのは、法律でなくともよいのではないか。持続可能な人間性を支えるのは、なんでもない終焉の連続ではないのか。  人を犯罪者にする使命。  いつからそんな使命を負っていたのだろう。  女は息をするのもやっとの車内で、苦痛に顔を歪めた。  まぶたの裏には、食卓を囲む人間たちの姿があった。互いに向き合うようにして座っている彼らは、皿の上に心を出した。彼らにとって、心は生きる糧であった。そこに化け物が現れて、心を食い散らかした。彼らは逃げた。そして入れ替わるようにして、化け物の口から出てきた人間たちが、心の残りかすに群がっている。ある者は化け物が見逃した心を見つけ手に取ったが、口に入れることはできず、絞り出した液を飲んだ。  女はその光景に言葉を失った。やがて化け物も人間も消えたかと思うと、ほったらかしにされた皿には虫がたかり始めた。女はゆっくりと食卓に近づき、皿を見た。いつも家で使っている、お気に入りの皿がそこにあった。女の母親も愛用する皿である。二人で出かけた時に買った思い出が蘇ると、女は感情の高ぶりで胸を引き裂かれた。「どうしてこんなところにあるの……」女の目じりに涙が膨らみ、パンと弾けた。   「痴漢です」  女の声が静かな車内に響き渡る。  先頭車両にいる乗客の誰もが、その声を聞いた。  自分には関係がないと思う者もいれば、腕時計の秒針が動き始めたと小躍りする者もいた。  大谷をいつ捕まえようかとやきもきしていた立花にとって、女の声は合図であった。    大谷はいざ本当に捕まるなら、事がどれほど大きくなるか理解していた。  衝動は理解を超えると言いたいわけではない。  まるで「痴漢です」の一言が呪いを解いたかのように、大谷は左手を動かすことができた。  理解と衝動は混ざり合えるのだ。  大谷が左手を女の臀部から離そうとした刹那、犯罪を犯してはならないという冷静と、時が再び走り始めるという熱烈とが葉脈のようにつながった。  対義という語は言葉の大海に沈み、対立が背負う錨はすべての語を抱く帆へと変わった。  大谷が気がついた時には、女の左手は大谷の左手首を、立花の右手は大谷の左腕を掴んでいた。  大谷は初めて「逃げなければならない」と思った。  自分はこんなところで捕まり、人生を台無しにする人間ではない。  これからも会社で責任ある立場を全うし、家族を養っていく。  たった一度の痴漢で、今までの努力をなかったことにされるわけにはいかない。  大谷の思考が激しく回ると同時に、その思考を歯車にして、恐怖の霧は濃くなっていった。  乗客の多くが関わり合いになりたくないと望む一方で、立花は自らの行動に満足していた。    大谷の左腕を掴み、確保したという安心感。  今すべきことをなしえた立花は、自分が持つ勇気の重さに負けなかった。  立花の鼻にも芍薬の匂いが達していたが、うわずった息とともにかき消された。  大谷の腕を握る立花の力は、強くなったり弱くなったりしている。  大谷を悪として断罪する人間であれば、その強弱は生まれない。  立花は悪が許せないのではなかった。  にわか雨のように降る意思に身を湿らせながら、やむのを望んだだけであった。  電車が停車駅に着いた。  女は、どうすればいいのかわからないでいる。  知らないうちに背後の男の手首を握っていた気がする。無意識と言っても過言ではない。この男と電車を出るところまではいいものの、その後駅員さんを呼べばいいのだろうか。でもどうやって呼ぶ? 都合よく近くにいてくれたらいいけど、もしいない場合は私ひとりで引っ張っていく?   車両の扉が開いた。外の空気が勢いよく入る。  女の周りの乗客たちは、いち早くこの場から離れたいと思う一方で、後頭部に目を開いておきたいと思うほどの好奇心が刺激された。  他人の人生が動く現場を見ることは、最高の娯楽である。  他人に立ちはだかる運命は、自己の運命を写す鏡となるからである。  女にとって待ち望んでいたはずの瞬間だったが、扉の開くスピードはいつもより速いと感じた。  女は初めて後ろを見た。背後の男の左腕を、中年男性が掴んでいる。 「この人も、協力してくれたんだ」女は少しほっとした。  女には立花の顔こそ見ることができなかったものの、立花の筋肉質な前腕は目に入った。太い血管が浮き出ており、血の波打つ音が女と共鳴した。  傷つけてくる男性と、落ち着きを与えてくれる男性が併存する車内で、女は異なる感情の交わりに遭遇した。そして、「男性」という概念が先に下車した。  「痴漢」を「男性」と結びつけることは可能であるが、概念を結ぶ自由は女にあった。「痴漢」を「男性」とし「男性」を「悪」とするよりも、「痴漢」を「犯罪者」とし「犯罪者」を「悪」とした。  女は「犯罪者」を単純に「悪」とするほど幼くはなかったが、この車両で「犯罪者」の解釈に励むほど暇ではなかったのである。  女と立花と大谷の三人はともに下車した。  女は大谷を引っ張るように、立花は大谷を押し出すように外へ出た。  大谷は、どのようにしてこの場を乗り越えようか考えていた。  女の手はいいとして、男の手を振り解く方法はあるのか?   先頭車両であるため、乗客は階段のある方向へしか出ない。  人混みをかき分けて階段にたどり着くのは難しい。  改札に着く前に捕まってしまうだろう。 「申し訳ありません。許されないことをしてしまいました。自首します」  大谷は立花に話しかけた。立花の拘束をゆるめることが先決だと判断したからである。  反省する姿勢を見せれば、力を弱めるかもしれない。  その時がチャンスだ。逃げよう。  あるいは、金でなんとかならないだろうか。  誠実な金額を出せば、解放されるかもしれない。  大谷の視界にはホームのアスファルトと点字ブロックしかなかったが、立花の一瞬の隙をうかがっていた。  大谷が望んでいたのは、身の破滅ではない。  いつからか姿を消していた、終焉と誕生に触れようとしただけなのだ。 「とりあえず、駅員さんとこ行きましょう。それから話しましょう」  立花は気を引き締めていた。  大谷という人物が醸し出す雰囲気に、どことなく嫌なものを感じた。  痴漢であるという先入観を抜きにしても、生きているのに止まっているような、奇妙な気持ち悪さがあった。  はやく駅員に引き渡し、目撃者として説明責任を全うするつもりだった。 「学生さん、痴漢されて怖かったよね。この人を駅員さんとこに連れて行こうね。俺も手伝うから。もう大丈夫だよ」  立花は女が一言も話しておらず、  しっかり振り返ってもいないことに気がついて、声をかけた。  女の勇敢な行動に報いるのは、男としての義務であり償いのような気がした。  女は恐る恐る身体の正面を立花に向けた。  女と立花の目が合おうとした時、やわらかな風が吹いた。  少し前にはひまわりの花びらを撫で、少し後には並木道を抜ける風である。  女の黒髪がなびく。  立花はその髪の隙間から乗客たちの後ろ姿を見た。  その瞬間、芍薬の匂いが立花に入り込んだ。  立花にとって芍薬は何一つ思い出のない匂いであった。  にもかかわらず、立花の手の力は弱まるに至るのである。  芍薬の匂いによって弱まったのか、もともと弱まる定めにあったのか。  弱まる前に芍薬の匂いがあったという事実。  これは単なる偶然かもしれない。  しかし、前後にあった事象を結びつけて因果としたいのはなぜだろう。  立花の人生には、芍薬の記憶がないというのに。  大谷は、立花の手と女の手を同時に振り払った。  なぜ立花の力が弱まったのかわからなかったが、  大谷にとってその理由を問う必要はなかった。    大谷は先頭車両の横を走り抜け、線路に降り立った。  緊急ボタンは押されたかもしれないし、押されなかったかもしれない。  女には、振り払われた手の疲れを労わる間もなかった。  一人の人間が線路に降りる事態となってしまったことに罪悪感を覚えた。  電車のダイヤは大幅に乱れるであろうし、確実にニュースとなる。    必死に走る大谷の背中を見て、女は哀れな気持ちを感じると同時に、涙で視界を覆われてしまうのであった。  立花は大谷が線路へ逃げたことよりも、弱まった自分の手に戸惑った。  油断していたわけではなかった。  しかしもはや、大谷は線路の上を走っている。    立花は追いかける立場にない。  急に、役割から放り出されたのだ。  むろん、駅員に事の経緯を説明することはできる。  ただそれだけでは、女の力になれないような気がした。  不甲斐ない手を眺めることしかできない茫然自失の立花に、生成と消失は巡って来なかった。  大谷が走る線路は、どこに続くのか。  次の停車駅であろうか、前の停車駅であろうか。  それとも、どこにも続かないのであろうか。  女は、ホームに大谷の靴が横たわっているのを見つけた。  右足の靴である。  太陽の光をそのまま太陽にお返しできるような、澄んだ輝きを持っていた。  女は涙であふれる目を拭いながら、黒光りする靴に力無く近づいた。  線路を走る男に、この靴を投げてやろう。  女が右手を垂らした時、拭った涙が人差し指からするりと流れ落ちた。  涙は靴の上で寄る辺ない水滴へ変わり、太陽の光を屈折させる。  女は大谷の靴に触れようとした瞬間、見覚えがあると思った。  靴を手に取りまじまじと見た。  女は靴に残るかすかな体温にはっとして、手を離しそうになった。  そして、大谷の後ろ姿を見つめた。 「あなた!」  女の声が聞こえた大谷は、立ち止まった。  振り返った。  遠くからでもはっきりわかる。  ホームに立って大谷を見ているのは、妻の智子である。  大谷は混乱した。  制服を着た女は、大谷と出会った当時の、高校生の智子であった。  大谷は自分の妻を痴漢したのだ。  智子が高校生の時に痴漢の被害にあったことを、大谷は知っていた。  知っていたどころではなく、その被害の相談を受けたのがクラスメートの大谷であった。 「痴漢をするやつなんて許せない。朝の忙しい時間を利用して触るのは、本当にゲス野郎だ。でも、ちゃんとした男だっている。俺は智子を傷つけない。ずっと守っていく」  大谷は当時このように智子を慰めたのであった。    二人はやがて交際を始めた。  智子は大谷を信頼していて、徐々に笑顔を取り戻したものの、  当時の被害は心の傷となった。  智子は朝の電車に乗れなくなり、精神を病みやすくなった。  大谷は悟った。  高校生だった智子を痴漢したのは、他でもない自分自身であったということを。  夫として犠牲になっているとさえ思っていた大谷は、自分を恥じた。  実際には、当時自転車通学をしていた大谷に痴漢することは不可能だった。  しかし、ホームに立ち尽くした女の顔は、人間の過去と現在、自己と他人が一つになるまで、涙を流し続けるのであった。  大谷は自分が線路の上にいることにようやく気がついた。  離れることに夢中だった。  家族のもとへ帰ろうとしていた。  それなのになぜか、高校生の智子がホームにいて、自分を見ている。  女は線路の上で立ち尽くす大谷を見て、自分の夫だと確信した。  女は未婚であり、線路の上の大谷は他人に違いないのに、彼が夫であることがわかった。  自分の夫を痴漢で捕まえようとしていたのだ。  女は困惑と後悔の入り混じった感情をどう整理すればよいのかわからなかった。  とにかく、大きく手を振り、「帰ってきて」と叫んだ。  大谷のつま先はひまわりの方角を向き、女の涙は先頭車両の輪軸に消えた。  大谷の足元の敷石は、レールのわずかな振動に心地よく眠っている。  敷石はレールのそばから離れる必要がなかった。  大谷の靴下に身を動かされようとも、錆びた鉄の毛布をかぶっていればよい。  大谷は一歩、また一歩と女の方へ近づいた。  わずかな歩幅であった。  その数センチがたとえ数十センチになっていたとしても、やはり大谷はその線路から出られなかったであろう。  大谷の背後には、電車が迫っていた。  本来であれば、線路へ人が侵入したために、緊急停止させられたはずの電車かもしれない。  だが、「そうあるべき」を規定し、前後の事実に理由をつければ、大谷は満足するであろうか。  「そんなはずはない」を大きくしていく試みが、大谷の終焉を奪ってきたのではないか。  大谷は女が革靴を持っているのを見た。  そして、自分の足を確認した。  右足の靴を履いていない自分が、あまりにも間抜けで笑ってしまった。  智子の手にあるのなら、履いていなくてかまわない。  履くために履いていた靴でもないだろう。  雲ひとつない快晴の空を、大谷は仰いだ。  空の青さと空の広さに、初めて心打たれた。  ありきたりな感動が、稀有な足元で生まれた。  線路に立っていると、おしゃべりはできないし、音楽を聴こうとも思わない。  ただ何かを見ているしかない時、そこに空があって、それを見つめる。  こんな状況にならなければ、大谷の人生に天気はあっても、空はなかったかもしれない。 「あなた! 逃げて! 轢かれる!」  女は、大谷に近づく電車を見て叫んだ。  線路へ降りようとしたが、そばにいる駅員が止めた。  ホームにはいつの間にか野次馬が集まり、携帯で撮影する者もいた。  撮影する対象は大谷ではなく、線路に逃げた痴漢である。  液晶の中で、大谷は人格を失い、好奇の目に晒されるだけの肉体と化した。  電車が大谷に衝突した。  大谷の身体は線路の上で切り刻まれた。  目の玉は宙に浮き、上空で女の姿を捉えた。  視神経が脳と繋がっていなくとも、目の玉は映し出すことができる。  見ることを知っているのは脳ではない。  目の玉である。  女は泣いていた。  もし涙を流さず泣くことがあるとするなら、  大谷の目の玉がそれを最もよく理解していた。  鮮明に見えている。  そう、見えているのだ。  運転士も、駅員も、野次馬も、智子も……。
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