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今夜が峠だろうか。
僕は目を閉じてベッドに横たわる彼女を見下ろしながらそう思った。
半年前、村のはずれにある丘の上で一緒に笑い合った彼女。あの時はこんな日が来るなんて想像なんてしていなかっただろう。
泣きたいなんてこれっぽっちも思っていないのに、僕の両目からは涙が溢れた。そしてその涙はツーっと頬を伝うと毛布から出ている彼女の手の甲にポタリと落ちる。僕は袖で涙を拭うとシャツの袖口を伸ばし、彼女の手の上の雫をそっと拭き取った。
その時、なんとか聞き取れるくらいの彼女の声が聞こえた。
「来て……んだ……ごめ……気が……った……」
「ううん。起こしちゃった?ゴメンね」
僕はそう言いながら伸ばしていた袖を元に戻してベッドの横の椅子に座り、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
力を込めたら折れてしまいそうな細い細い彼女の手。その温もりを感じ取ろうとしてみても、僕の体温の方が高くてうまくいかない。それでも何とか感じ取ろうと僕は彼女の手を両手で包み込み、そっと自分の頬にあててみる。
うん。この方がずっと彼女を感じられる。
僕はそのまま彼女ににっこりと笑いかけた。
僕の体温は彼女に伝わっているだろうか。
何か言いた気な表情をしながらゆっくりと口を開いたり閉じたりしている彼女。そんな彼女の様子は僕を焦らせる。ひょっとすると僕が想像しているよりも早く、彼女は動かなくなってしまうのではないのかと。
「大丈夫。君は死んだりなんかしない。だから落ち着いて」
彼女の手をさっきより強く自分の頬に押し付けながら僕は彼女に囁いた。
だってあの日、約束したじゃないか。
あの丘の上で。
彼女の代わりに僕を殺してください。
あぁ。僕を。
僕を彼女と交換してください。
僕は彼女になりたいと心の底から願った。
そして僕は頬にあてていた彼女の手を両手でギュッと握りなおすともう一度彼女に向かって囁いた。
「君は死んだりなんかしない」と。
気がつくと僕はベッドに横たわり、僕の両手を握りしめる彼女の手の圧と温もりを感じていた。
「どうして? なんで?」
涙でグシャグシャになりながら、彼女は僕を責め立てる。そんな彼女を見上げながら、僕はとてつもない幸福感に包まれていた。
上手くいった。
僕と彼女の立場が入れ替わったことで、まもなくこの世界から旅立つの予定は僕のものとなり、これからもこの地で生きていく人生は彼女のものとなったのだ。
「や……く…………く」
「……約束? あんなの、ただそれくらい愛しているっていうことでしょ?」
あの日僕が君と丘の上でした約束。
『全身全霊をかけて僕は君を守るよ』
僕は君を死なせたりなんかしない。
残された最後のチカラを振り絞って僕は彼女に微笑みかけた。
そんな僕に向かって彼女は叫ぶ。死なないで。置いていかないで。私が死んでしまう方がいい。そんなことを。延々と。
僕は最後に彼女の泣き顔をじっと見つめた後、もう満足だとゆっくりと目を閉じる。
外界からの刺激がどんどんと遠ざかり、肌に触れているはずの毛布の感触は全く感じられなくなった。彼女の手はまだ僕の手を握っていてくれているのだろうか。
世界と僕の境界線が肌の上で一瞬だけその存在を主張した後消えていく。沈んでいく。深い深い場所へ。重力が加速し、息がしづらくなってきた。重い。重い。僕は圧縮されていく。圧縮されながら、同時に僕は世界に溶けていく。混じる。溶ける。ぐちゃぐちゃに。
ああ。
たまらない……
ーーー
僕が彼女に近付いたのは彼女を愛しているからではない。
僕が心から求めてやまないのは心と体が切り離されるあの瞬間。消滅する意識がしがみつく身体と意識を切り離そうとする身体の攻防。過敏であり鈍感でもある他のものでは変えられない、この特別な感覚のみ。
ああ。至福の時間が終わってしまう。
僕は少しでも取り逃がしたくないと全ての感覚に意識を集中するが、その時は無常にも訪れてしまった。
ーーー
一瞬の無の後、僕は最後を迎えたのとは違うどこかの街の公園らしき場所で目覚めた。
身体を起こし、硬い木製のベンチに座りなおす。さっきまでのたまらない快感の余韻に浸ろうとしても、求める感覚はするりと身をひるがえし、僕から逃げていってしまった。
『天国から地獄へ』
死に終わった後、いつも僕の頭のなかにその言葉が蘇る。
あの、死の瞬間の快感に囚われてしまった僕。だから完全なる死を迎えられなくなってしまったのか。それとも完全な死を迎えられないからこそ、僕はあの耽美な時間を追い求めるようになってしまったのだろうか。
いや。そんな事はどうでもいい。
あの幸せな時間をもう一度。
顔を上げて辺りを見回すと、健康そうな女性が僕の視界に飛び込んできた。
この子に決めた。
思わず笑みがこぼれる。
僕は立ちあがるとズボンの汚れを払い落し、彼女に向かって歩き始めた。
彼女と約束を結ぶ未来への第一歩を。
<終>
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