変人たちの狂詩曲

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 正直いうと、僕は少しだけ期待していた。  もし、男が手首を切ったとして、その流れた血を僕が舐めたのなら。一体どうなるのだろうか。人魚を食べた人間を取り込むことで、自らも不老不死になるのだろうか。 「人魚ってさぁ、美味しいの?」  サンドイッチに挟まっているチキンのような淡泊な味なのだろうか。 「覚えてねぇな。あの頃は美味い不味い関係なく、とにかく腹を満たす事に必死だったからな」 「怖くなかったの?」  色んな意味を含めた最大の問いかけをしてみる。 「人間な、極限の状況になったら、何でもすんだよ」  男の目が大きく見開かれる。さっきとは違ってまるで、僕すら食らうような圧がそこにはあった。光をなくした黒い眼差し。嫌な心臓の跳ね方に、男から視線を逸らす。  この男は本物かも知れない。拭いきれない疑いの念があったけれど、僕のなかでそれが消化されようとしていた。  男は金を持っていないと言ったので、支払いは僕がした。  仕送りされている学生の身分である僕にとって、それは痛い出費には違いない。それでも不満はなかった。男の機嫌を損ねてどこかに行ってしまう方が嫌だったからだ。  本物の可能性が高まった今、僕にとって彼は憧れの存在となったのだから。  必要最低限の生活用品を揃えたのち、僕は安普請のアパートに彼を案内した。  足音響く鉄階段を登り、二階の奥から二番目の部屋の鍵を開ける。  猫の額ほどの広さの部屋には、テーブルと本棚ぐらいしかない。男は「なんもねーな」と言って、薄っぺらくなった座布団に早々に腰を下ろしていた。 「物を持つという概念が分からないんだ。いつか死ぬのに、あってもしょうがないし」  キッチンでグラスに緑茶を注ぎながら僕は言った。 「コーヒーないのか?」  男の目の前にグラスを置くと同時に、男が不服そうな声を上げた。 「ないよ。飲まないから」 「ジュースもか?」  僕が頷くと男は、「変な奴だな」とグラスに口をつける。  僕は向かいに腰を下ろす。男が緑茶を嚥下する度に、喉仏が動いていた。  これからこの男とここで寝起きするのかと思うと、不安というよりも畏怖に近い何かを感じていた。 「今更後悔しても遅いからな。あのとき、引き留めたお前が悪い。面倒見るのは当たり前の事だ」  僕は首肯した。
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