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ライトアップの光が遠くからこちらに漏れているが、ベンチの周りは少し暗い。
「ここは一応人が通って」
「無理」
彼は短くそう答えると、私にキスをした。優しく柔らかく長いキス。名残惜しそうに互いの唇が離れた。
「皐さん……帰ったら、続きをしてくれますか?」
「……今すぐ帰ろう!」
「え、夜桜と屋台は」
「椿が悪いんだよ? 俺はもう夜桜や屋台どころじゃありません!」
「えー! ヤブっ」
「……」
「ほ、ほめんにゃはい……」
私が頬を擦っていると、彼が何か呟いた。
「そう言えばあのクズ先輩……約束破りやがって……椿って呼ぶなって言ったのに」
「何か言いました?」
「……いや、なんでもないよ」
私たちは立ち上がって手を繋いだ。腕時計の秒針がリンクした。 私にはまだ、自分がリトライ出来ているのかわからない。それでも、完璧でなくていい、不完全でいい。こんな私の全てを愛してくれる人がいる。それだけで十分だと思った。
「屋台の良い匂いが」
「仕方ないな。十分で買って帰ろう」
「たった十分!?」
もう甘ったるい香りはどこにもなかった。
「行こうか、椿」
「はい、皐さん」
桜吹雪が止んだ。互いを呼ぶ声はとても、温かかった。
嫌になるほど香っていた、甘く燻ったラズベリーとバニラはいつの間にか消えていた。
聞こえるのは自分の心臓が波打つ鼓動と、寸分の狂いもなく刻まれ続ける二人分の秒針の音。
私はきっと、期待しないと思っていても期待していたのだと思う。代わり映えのない毎日に彩りを添えてくれる誰かを。
帰り道がわからなくなっても、そっと手を差し伸べてくれる誰かを。
私以外の名前を呼ぶ甘い声の誰かではなく、私の名前を呼ぶ温かい声の誰かを。
永遠と機械的に進むだけの時間だけではない、秒針のように一秒一秒しっかり一緒の時間を刻んでくれる誰かを。
二人分の影がそっと伸びていた。ほのかな椿と皐の残り香を置き土産にして。
パルファムタイム
2023/01/31 完結
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