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 鱗雲に覆われた空に、燃えるような紅葉がよく映える。足を踏み出せば重なった紅い葉がかさかさと音を立てる。紅い世界で迷子になりそうだ。いっそのことその方がよかった。  帰りたくない。帰れば人生という戦いを死ぬまで続けねばならなくなる。しかし帰らねばならない。目の覚めるような紅い世界に、僕を閉じ込めてくれればよかったのだ。  嫌でも陽は落ちる。陽が落ちれば紅い世界ではなくなる。僕は現実へ帰ってきた。窓から見える盈月(えいげつ)がぼうっと目の奥に沁みる。反響する鈴虫の音がひりひりと胸を打ち付ける。僕がどれほど抗おうとも、人生は惨酷(ざんこく)に進んでいく。涙がひとりでに溢れてくる。誰のせいにできようか。目に映る月も、耳に響く虫の音も、もう僕を潤してはくれなかった。どうせ皺の刻まれた手では瑞々しい果実を採ることはできないだろう。じわじわと心を擦り減らされるくらいなら、いっそのこと今すぐにでも永遠の眠りに就きたかった。少しも苦しむことなく彼岸へ旅立ちたかった。  しかし世の中は惨酷だ。生きる希望を持った者に限って、流行り病に侵されあっと声を上げる間もなく倒れていく。その癖死にゆく日を今か今かと待つ者は彼らの死を横目に生きながらえていく。何度日没を見たことだろう。もう良いではないか。誰に呼びかけるわけでもない僕の言葉は、己自身の擦り傷を荒く削る。君は生きるに値しない、と誰かが死の鉄槌を下してくれたならどれほど楽になれただろう。
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