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高天原の交渉役である天若日子は、出雲神殿内に広く立派な居室を与えられていた。
居室に面した中庭は手入れが行き届いており、何種類もの木々が植えられていた。
鳴女は桂の木に舞い降りた。
女官として天照大御神に仕えていたので、高天原神殿に昇殿する神々は見知っている。
交渉役として白羽の矢が立った天若日子が高天原神殿に昇殿した際、『殿上の間』に案内したのも、鳴女であった。
天若日子は、高天原の若い女神からの評判が良かった。
眉目秀麗なる容姿と優美な振る舞いであるにも関わらず、戦いとなれば勇敢な武神なのだ。
案内をした女官の鳴女に対しても丁寧に礼を述べた姿は、好印象として記憶に刻まれていた。
鳴女が雉の姿のままで木の上から話しかけたのは、天若日子に対する気遣いからだ。
高天原からの叱責など、出雲側に知られたくないだろうし、交渉人としての体面もあるだろう。
雉の姿での伝言は、高天原の神、つまり天つ神であれば解読できる。
地上の神、つまり国つ神には、鳥のさえずりにしか聞こえない。
「天若日子よ。高御産巣日神がお尋ねだ。国譲り交渉は如何なる状況なのか報告せよ」
驚いた様子で居室から庭を覗き見た天若日子が、桂の枝に止まる鳴女に気付いたのは確かである。
しかし、なかなか庭に出て鳴女の元に来ない。
鳴女は木の上から、再び呼びかけた。
ほどなくして、天若日子は庭に出てきた。
その手には、天之麻迦古弓と天之波波矢が握られていた。
よもや、その矢が自分に向けられると、鳴女に予測ができただろうか。
天之麻迦古弓は、狙った獲物は逃さぬ弓であり。天之波波矢は、竜であろうと射抜く。
武神が放つ強い神力を持つ神矢から、一介の女官が逃れる術はない。
高天原から遠く離れた出雲神殿の中庭で、鳴女は一瞬にして射殺された。
室内から「いかがされましたか」と、庭の天若日子に向かって声が掛かけられたのは、暫くたってからだった。
弓を片手にじっと立ち尽くす姿を不審に感じるのも当然である。
「何でもござらぬ」
天若日子は声の主の妻の元へ戻る際に、木の根元で息絶えた雉に目を向けた。
「雉も鳴かずば撃たれまいに」
天若日子には、雉と顔見知りの女官・鳴女は結び付いていなかった。
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