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もう戻れない
その手の温もりを忘れないもう二度と離さないで
憔悴しきった母の口から溢れた言葉が私の中の遠い記憶を呼び覚ました。遠い夏まだ幼い私の手をとり夕暮れが長くながく背を伸ばした帰り道。それは兄だったのだ。やはり私には兄が居ったのだ。その光景をこれまで何度もなんども夢でみたことを思い出した。なぜその夢を毎晩のようにみせられるのかわからなかったのだがそれは遠く幼い日の私の記憶であったのだ。母は私と一切目をあわすことをせずテーブルの角の辺りに目をやり重苦しく、しかしはっきりと次の言葉を漏らした。
「もう終いになさい」
知らなかったのだ。まさか幼くして生き別れ記憶にすらない実の兄と大人になり恋をするなど夢にも思わなかったのだ。だがしかし今ここに結婚を考えている相手として故郷へ帰り母に紹介した彼が実の兄だったのだ。彼も今知らされたその事実に強い衝撃を受けたのだろう虚ろな目はあちらこちらへと泳ぐばかりで言葉ひとつ発することがなかった。いや、発する言葉が見つからなかったという方が正しいだろう。私はというとまるで時間までもが止まってしまったような不思議な空間を漂っているような感覚に襲われ立っているのかやっとのことで目に入いるのは表情を固く強ばらせやがて暗く曇らせた少し痩せた母の厳しい横顔だけであった。思い起こせばたしかに腑に落ちることも幾つかあった。初めて彼の手の温もりに触れたとき恋とは違うもっと強いあたたかさ、それは愛に近い体温を感じその安心感から気を失うようにその場で私は眠ってしまったのだ。そのときの私といえば突然に職を失いその勤め先の寮も当然追い出されもう死ぬしかないと数日彷徨った挙句の土砂降りの雨の夜に彼と出会った。彼が私の手をとったとき気を失うように眠ってしまったのだ。それは幼い日の記憶をこの手が知っていたに違いない。そして、やっと巡り会えたそう私は思った。それは運命の再会を意味していたのだろう今にして思えば。それから彼の部屋に住みつき何度か身体を重ねた。しかし私も彼も違和感を覚えた。嫌いなはずがない。彼は土砂降りの真夜中にずぶ濡れで蹲る私に一目惚れをしたのだと言った。私は彼の優しさに甘えた。遠慮なく全て甘えそして委ねた。こんな恋は初めてであった。私も彼にはひと目で恋に陥ちた。しかし身体の相性というかそれには違和感が伴った。しかし彼は言った。
「セックスが恋愛の全てじゃない僕は沙織が本当に好きなんだ」
そして私を抱きかかえて頭を撫でてくれた。それはセックスより気持ちがよくそのまま眠ってしまうこともしばしばであった。それで合点がゆくというものだ。道理で私たちは身体よりも心というか精神的な結びつきを重んじたことに。兄と妹と知らずとも。それは母が幼い私を連れ、ひとつ違いの兄は父の元に残し家を出たことをも今知った。私の本当のお父さんは彼の父親であるということも。彼は今、実の母親と再会をしたのだ。そう全ての時が止まり全ての点と線が結びついた、いやそれは複雑に絡み合った瞬間であった。じつに不都合な再会劇ではないか。でも、
もう戻れない例え愛した人が兄だったとしても
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