青い血

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青い血

 また夫が生きていた。昨晩も殺したはずなのに。  ダンベルで殴り、頭蓋骨を粉々にするくらいでは意味がない。 「何度失敗すれば気が済むんだよ……もうこんな時間! そろそろ出ないと」  夫は玄関で靴を履きながら、掛け時計を見るとこう言った。  夫は出勤前にいつも私を抱きしめる。今朝はことさら満面の笑みを浮かべている。気持ち悪い。夫が近づいてくる。  私は無言で、隠し持っていた包丁を夫のみぞおちに突き刺した。  勢いがなかったせいか、奥まで刺さらない。  夫の体が思ったよりも硬い。もっと切れ味のよい包丁であればよかったと後悔した。  腐ったような青い血は出ている。  鈍い感触もあった。  ベトベトになった包丁を嗅ぐと、生臭さがツンと鼻をつく。  夫はびっくりした様子だったけれど、かまわず私を抱擁した。 「今日は給料日だから焼肉でも食べに行こうよ! 仕事終わる頃に連絡するね」  夫は元気よく出かけて行った。  夫のせいで玄関が血の海になってしまったが、放っておけばいい。  どうせすぐに消える。つまらない男だ。    私は夫を観察するため、焼肉屋の向かいのカフェに陣取った。  ここから焼肉屋の入り口が見える。  夫は約束の三十分も前に着いた。  入り口に置いてあるメニュー表を手に取っていた。  ぱらぱらとめくり、首をかしげると、メニュー表を口に入れた。  咀嚼してからそれを背中から出すと、何事もなかったかのように元に戻す。  私はヒヤヒヤして立ち上がった。  誰にも見られていないようだったが、夫の脇の甘さにうんざりした。  焼肉屋に向かった。  夫は入り口でぼうっと立って待っていた。  よれたスーツとくたびれたネクタイを見ると、やはり殺したくなる。 「待った?」と聞くと「今来たところだよ」なんて言う。  本当は三十分前から待ってたんでしょ? 知ってる。  店内で一番奥の目立たない席に座った。私はメニュー表に目を通した。 「あなたはもう頭に入ってるんでしょ。外ではやめなさいね」  夫はなんで知っているのという顔をしていたが、すぐに察してニヤニヤした。私は腿や前腕二頭筋などの好物を注文した。  腿は脂が美味しく、前腕二頭筋は引き締まりと歯応えが気に入っている。 「ここに来るとやっぱり眼球が食べたくなるよ」  夫は焼肉屋でサイドメニューばかり頼む。  眼球や爪であれば他のお店でも食べられるのに。  食の好みはそれぞれだと知っていても、  一緒に暮らしているとその差がストレスになる。  運ばれてきた七輪の煙越しに、私は夫のぎらぎらした目を見た。  お腹が減っているらしい。 「箱は、開けたの?」  今日も気になった。  あの箱を開けるには覚悟がいるけれど、  夫であれば開けそうな気もしていた。 「いや、まだだよ。可愛くてね」  夫はポケットから箱を取り出すと、手のひらで包んだ。  箱がピクっと動いて、静止した。 「私に箱を譲る気はないの?」  温かく見守る妻のような目で尋ねてみた。  夫は運ばれてきた眼球や肉を七輪の網の上に並べる。  眼球をころころさせた後、あまり火を通さないうちに頬張った。 「君のことは愛しているけど、箱は渡せないね」  夫の口の中で眼球が二つに割れたとき、音にならない音が鳴った。  夫はのんきに鼻の角度を動かしている。  かっとなった。  私は七輪の網を外し、火の中にある炭を掴んだ。夫のそばまで行き、口にねじ込んでやった。 「あが……あがあが!」   夫は炭を飲み込むと、何事もなかったかのように口の周りに付いた煤を払った。焼いていた肉は炭の中に埋もれた。シューという音が店内に響く。店員は変わらず自分の箱を大事そうに磨いていて、客の私たちには少しの注意も向けなかった。 「君が持っている箱の様子はどうなの? 人間は健やかに過ごしてる?」 「あなたが持っている箱に比べたら、眺める価値もないわ」 「卑屈になってはダメだよ。デザインがいいし、大きさもそこそこある。確かに君の箱は穴が空いているよ。もったいないと思うこともある。でも穴があるからこそ、たまに人間が見られていいんじゃないか」  私はとりあえず夫の隣に座った。  炭の中から前腕二頭筋の破片を取り出すと、  有名な秘伝ダレにつけて食べた。  この店はタレで成り立っているようなものである。  私はコリコリと肉を噛みながら立ち上がった後、  座っていた場所へ大人しく戻った。  おもむろに箱を取り出した。  私の箱は古いけれど、夫の箱と違って装飾が豊かである。  デザインが優れていればいるほど、箱の中の人間に多様性が生まれる。  穴を覗くと、ごくまれに中の人間を観察できる。  これは利点なのか欠点なのかわからない。  ただ、私は穴がないほうがいい。  穴のせいで人間をよく失うからだ。    家に帰り、毒殺の準備をした。  物理ではダメージを与えられない。  夫を殺して箱の所有権を奪うまで、ふるさとに帰れない。  窓際にあるテーブルへそれぞれの箱を置き、白銀の月光を浴びさせる。  夫の箱は青光りする一方で、私の箱は黒ずんでいる。  私は今日の昼も自分の手首を切ってみたが、やはり黒い血だった。  黒い血では人間の目が覚めない。  青い血が流れる身体を幾夜夢見たことだろう。  夫がトイレに行く隙に、赤ワインへ毒を入れた。  毒は工事現場から調達した。激臭を放っているものの、幸い夫には本物の鼻がない。作り物なのだ。  このまま毒を飲んでくれたらいい。  夫の息の根が止まれば、青い血を手に入れられるはずである。  心の中で高笑いをしていると、テーブルに黒い血が滲んでいるのを見つけた。  黒い血は消えない。  トイレから戻った夫が毒入りの赤ワインを飲んだ。数十秒後に喉を押さえて苦しみながら倒れた。私は夫の箱を持つ。開けようとしたけれど、開かなかった。つまり、夫は死んでいない。力無くうつ伏せになっている夫の肉塊は、私の恨みのすべてを受け入れているようだった。    また朝が来た。私はごはんを作る。洗濯を回す。  夫が起きた。  夫はまず自分の箱を持ち上げコンコンと叩いた。  箱の中が反応している。  かすかなうめき声が聞こえる。  夫はいつ箱を開けようか考えているようだった。  少なくとも私にはそう見えた。  もう開けてもいいじゃないかと思う私の気持ちをよそに、夫は箱の角で指先に傷をつけ、青い血を出した。  箱に垂らした。  箱がガタガタ震えて青い血を吸い込んでいる。 「おはよう。ごはんできてるよ」  キッチンから夫に話しかけた。夫は青い血が箱に消えていく様を入念に観察していた。 「昨日の毒は……危なかったよ。ありがとう」  夫は軽く頭を下げた。どういたしまして、と返した。いたたまれなくなった。夫の箱は青い血を勢いよく消化し、落ち着いたようである。うめき声も聞こえなくなった。 「私はいつまでこんな生活を続ければいいの……」  つい感情がたかぶって、本音を漏らしてしまった。黒い血と穴の空いた箱から解放されたかった。  夫は目を細めながら、私の頭を撫でた。   「君の惑星の名前はなんていったっけ?」 「……地球」 「そうだった。太陽系の惑星だよね。なんで青い血がほしいの? 赤じゃなくていいの?」 「赤は嫌よ。煮えたぎっている色だから」 「僕の血は青ざめている。気持ちが通っていない」 「そこがいいんじゃない。私の黒よりましよ」 「黒だって、宇宙のようなもんだ」 「気休めよ。宇宙は黒なんかじゃないわ」  食器をテーブルに置いた。  ガチャンとうるさかった。  夫の血を羨ましく思ったところで、箱の穴がなくなるわけでもない。夫は椅子に座ると背伸びをした。勢い余って後ろへ倒れそうになったので、私はすぐに夫の背中を支えるようにした。 「今晩、箱を開けようと思うんだ」  夫は私の目を真っ直ぐ見て言った。  言わなくてもいいことなのに、わざわざ言ってくれたのが嬉しかった。  夫は「美味しい、美味しい」と頬を緩ませながら、朝食をとっている。  カーテンを開けてみた。朝の日光って、意外に眩しいんだな。夫はごはんを豪快に食べている。作り手にとって、これほど愉快なことはない。  夫は朝の身支度を終えると、玄関で靴を磨き始めた。今までの日々の中で一番ゆっくりと、丁寧に磨いている。黒い革靴が蛍光灯の光を反射し、私の眼球を照らす。  私は昨日の昼に届いたナイフを手に持っていたけれど、靴箱の上にそっと置いた。主人はそのナイフの鋭利な切っ先を見て、 「よく切れそうだね。試してみたかったね」  と言うと、私を抱きしめた。主人の腕が震えている。     瞬く間に夜になった。昼は何をする気にもなれなかった。ごろごろして、寝て、またごろごろしていた。掛け布団はいつの間にかベッドから落ち、床で丸くなっている。  主人が帰ってきた。  無事に戻ってこられてよかった。  夫は今日、箱を身につけていない。  テーブルに置いたままだ。  私も箱を触っていないから、ぎりぎりの状態だった。無駄な体力を使わないよう、迎えもせずにベッドで寝ていた。  主人は念入りにうがいをしているらしい。洗面台から聞こえる水しぶきの音を耳にしないように、私は掛け布団を拾い上げて覆いかぶさった。  主人はリビングに行ったが、私がいないと思ったのか、寝室に歩いてくる。廊下が軋む音でさえ、掛け布団を簡単にすり抜けた。 「大丈夫? 体調悪い?」 「――気にしないで」  起き上がり、主人と寝室を出た。  目をこすりながら、水道水をコップに入れて一息で飲んだ。  それぞれの箱からのびる月影が交わっている。  主人は自分の箱を手に持って、外観を確認した。箱から聞こえるうめき声は昨日より大きくなっている。鎮痛剤を飲んでもなお治まらないかのような、望みを断たれた音波である。  私は主人を後ろから抱きしめた。  主人は私の腕をさすってから、いきなり箱を開けた。  ドキッとした。  あまりに不意のことで、箱を奪って閉めたくなった。  箱の中身がわずかに見える。  無数の人間たちが手を伸ばしている。  主人は箱の中を覗き込み、目を見開いた。  顔の筋肉が硬直し、剥製のように動かない。  一人の人間も逃さないという意志なのだろうか。  私は突き飛ばされた。  おそらく、命拾いをした。  主人は足元から変形している。  私の箱が青く光り始めた。
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