花吹雪

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脳外科では、顕微鏡を使って手術を行う。細い血管や数多の神経を傷つけないように腫瘍を取り除くことは、繊細で卓越した技術が要求されるのだ。 かたや頭蓋骨を外すときにはドリルを使う。 ドリルで頭蓋骨を切り取り、脳を露出させる。ここまで落差のあることも、脳外科手術の特徴である。 医師は、顕微鏡を覗きながら手術をする。 執刀医以外の助手2名ももちろん顕微鏡を覗くから、手術用の顕微鏡には覗けるレンズが3か所についている。 看護師は顕微鏡を覗けないため顕微鏡の映像が映し出されたモニターを見て状況を把握しているが、顕微鏡は執刀医によって少し上にずらされた。 顕微鏡での手技は終わり、本格的に創を閉じていくという合図だった。 脳内に触れることは終えて、表面の皮膚等を縫い合わせていく。 誰もが手術は終了に向かうものだと思っていた矢先だった。 モニターにはまだ、顕微鏡の映像が映し出されている。 少し上にずらされていても、術野にピントは合ったままだった。 医師が術野からガーゼを離すと、モニターは一面真っ赤に染まっていた。 大量出血 医師全員と絵美が息をのむ。麻酔科医もおもむろに立ち上がった。 脳外科でモニター全体が赤く染まるような出血はただごとではない。 緊急事態であることは明らかだった。 すぐに出血点を見つけ止血できればいいものの、現在正確な出血点は見つかっていない。 「……っ、止血剤!」 「はい!」 絵美ともうひとりの看護師― この看護師は手術室内で必要な薬剤の作成や患者の体位の確認をしている。 看護師ふたりは、弾かれたように返事をした。 今使える止血剤は、薬剤が手元に5㎖程度。綿状のものが数グラムだ。 通常の手術であれば十分だが、この状態では焼け石に水でしかない。 「杉野、止血剤はこれだけか」 「今すぐ使えるものはこれだけです。部屋の外にはまだ在庫があります」 「あるだけ持ってきてくださいよ!」 「今持ってきてくれています。すぐ届きます」 ベテランの執刀医は冷静だったが、若い助手は完全に余裕が失われて声を荒げた。 「なんで部屋に準備してないんだよ!」 「部屋にはオーダー通りの器械と薬剤が準備されています。それ以上のものは他の手術の兼ね合いもあってこの部屋に全て確保しておくことは難しいんです。でも、すぐに状況を説明して薬剤をこの部屋に集めます。少しだけ待ってください」 ここで絵美も引きずられたらミスが増える。 努めて声のトーンを下げるも、手が震えそうになる。 「わかりました、すみません」 若い医師も冷静さを取り戻したのか、息をついた。 「麻酔科、応援呼びます」 麻酔科医がピッチを持ちながら宣言する。 今日の麻酔科医は大ベテラン。しかしひとりで判断するのは危険な状況とし、応援を要請した。 直後、患者の全身状態を映すモニターが高い音で異常を知らせた。 (とおる)は、急に喧噪の中の手術室に引きずり込まれていた。 ずずずと体を持ち上げられたかと思うと、煌々と明るい部屋の隅っこに立っていたのだ。 何かが焦げるような臭いと、血に染まったガーゼがぼとりと床に落ちる音、モニターからはピッピと高い音が規則的に聞こえてくる。 「止血剤あるだけ持ってきて!」 「輸血用意しますか」 「お願い」 「脳外科教授に連絡」 「はい」 医師は額に大粒の汗をかき、ひとりの看護師は注射器に薬を吸い、ひとりの看護師は何度も何度も医師にガーゼを渡す。 ガーゼは渡したそばから血に染まっていく。 「麻酔科緊急コール。1番、血圧低下。1番、血圧低下。ショック状態」 麻酔科のコールで手術室全体に高い音が鳴り響き、何十人もの医師と看護師が部屋になだれ込んできた。 透は何が起こったのか分からず、部屋の奥の壁に張り付くようにして状況を見守る。 夢にしては臭いや音がやけにリアルだ。 部屋も大勢の人がいるからか、がんがんに冷房がきいているのに暑いくらいだった。 透は血やらなにやらを見慣れていない。 興味はあったが、手術中の人間に近づくことは怖くて出来なかった。 それにしても、こんなところに部外者がいたら怒られるのではないかとびくびくする。 医師も看護師も慌ただしく、焦った声で指示を出している。 緊急事態なのは一目瞭然だった。 入院中の透の身の回りの手伝いをしてくれる看護師はいつも優しく、走っているところは見たことがないし、医師はいつもゆっくりとした口調で話していた。 だから透も安心して何か聞いたり頼んだりしてきたが、この状況で見つかればいくら患者だとしても許されないだろう。 隠れられる場所もなく、透は手術室の奥に突っ立ったままだ。 気付かれるのは時間の問題だ。透は入院患者が着る病院から借りた浴衣を着ている。 「あ、えっと、これは自分でも知らないうちにここにいて……」 ひとりの看護師と目が合い、とっさに弁解しようと口を開くも、誰も透の方を向かない。 先ほど目が合ったと思った看護師も、何も言わない。 「なんでだ?」 自分の姿は、周りには見えていないようだった。 奇妙な夢だ。しかし透は、妙な胸騒ぎを覚えた。 透は脳腫瘍の手術を受けるために入院し、今日の朝手術室に入ったのだ。 いつからか頭痛や吐き気が頻繁に起こるようになり、病院で精密検査をしたら脳腫瘍だと言われた。 県で一番大きな病院を紹介され、あれよあれよという間に手術を受けることになった。 手術室に入る前に、自分の名前が手術室の部屋の中に貼ってあることを確認したのだ。部屋番号は1番。 名前は、【浅間透】 今いる部屋には、自分の名前の名札がかかっている。 「俺の、手術……」 混乱の渦中に、頭蓋骨の一部を外されて横たわっているのは自分らしかった。 「俺は死ぬのか……?」
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