花吹雪

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「よーし。閉じて終わりにしますー」 「洗浄500用意あります」 「オッケー、追加もすぐ出るようにしといてください」 「わかりました。生食(せいしょく)500追加お願いします」 絵美は、部屋にもうひとりいる看護師に声を掛けた。 生食とは生理食塩水のこと。創口は普通の水ではなく、生理食塩水で洗うのだ。 500は、500㎖の略称。ピッチャーに並々注がれた生理食塩水を大きめのシリンジ数本に吸っていく。 医師に「水」と言われたときはこれを渡す。 ピッチャーのまま脳にかけてしまったら、水圧で組織が損傷する。 そうなれば手術をした意味がない、どころの話ではない。 時刻は18時。朝一番で始まった脳腫瘍摘出術は閉創直前だった。 摘出された腫瘍はすべて病理部へ提出されており、脳から腫瘍はほとんど綺麗に取り除けている。 閉創前に医師は出血している箇所がないかを入念に確認し、看護師は器械が全て揃っているかを確認する。器械の確認は、患者の体内に小さな器械が入ったまま閉創するのを防ぐのに非常に重要な観点であるのだ。 終了間際はどの手術でも慌ただしいが、脳外科は殊更である。 数百を越える器械が術野で用いられ、看護師はそのすべてのありかを把握し不足の有無を確認すると同時に刻一刻と変化する術野の状況に合わせて医師に器械を手渡していく。 頭と体をフル回転させる現場はさながら戦場だ。 「ちょっと出血してるかな。ガーゼ」 「はい」 止血が終わって洗浄も済めば、本格的に創を閉じ始める。 看護師の絵美は、先ほどまで使用していたピンセット以上に細く繊細な器械をバスケットに戻して皮膚縫合用のペアンやハサミを手元に置き始めた。 「うーん、もっと奥か?」 止血は思ったより難航しているらしく、血を吸ったガーゼが戻ってくる。 絵美は医師の掌に新しいガーゼを乗せた。 医師は基本的に術野から目を離さない。 したがって手術中に医師と目が合うことはない。 医師は手の感触で器械やガーゼを判別し、指先に掴み術野に運ぶ。 一点物の器械の受け渡しを失敗して床に落とすようなことがあれば、その器械を再び使用できるように滅菌する。 ロスタイムは3時間ではきかないのだ。 器械の滅菌が終わるまで待機することになる。 患者は麻酔がかかったままだ。患者の身体に負担をかけるようなことがあてはならない。 したがって、看護師は器械を渡すのには神経質になる。 不潔にしないように。医師が落とすことなく器械を術野に運べるように、と。
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