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いつの間にか、大蔵高校前ではなく若葉車庫まで歩いてからバスに乗るのが習慣化していた。いや、そういっても、まだ5日目だけど。
「お、朝の子じゃん」
気まずいから、あの時営業所にいた人達にはちあわせしないように願ってたのに。後ろからいきなり声をかけられて、飛び上がる。
バッと振り向くと、建物の壁に若い男の人が寄りかかっていた。
背はわたしよりも高いけど、あのくらいの年頃の男性としては低い方だと思う。髪を茶色く染めた、とにかく軽そうな人。
彼は目の前までやって来て、わたしと視線を合わせるように身をかがめる。近っ! わたしはあわてて身を引いた。
「……な、なんですか」
こんな人、営業所で見たっけ? 格好からして、運転手の1人だと思うけど。
「ボクは、運転手をやってる藤原だよ」
「や、山下美音です。あと、名字ならネームプレートを見ればわかります」
名乗られたので、とりあえず名乗り返す。
「ははっ、ツッコミ鋭いね」
彼はニコリと笑った。邪気のない笑顔も、距離の近さがゆえに警戒してしまう。
何の用だろう。
「朝、ろくに話聞いてもらえなかったでしょ。よかったら、ボクが聞くよ?」
「え?」
思いがけないセリフに、わたしはまじまじと藤原さんを見つめた。
「ボクとあいつは中学の頃からの付き合いだからなあ。いわゆる、くされ縁ってやつ? センパイとして、大事な弟分に苦情がきてるなんて、放っておけないワケ」
……つまり、自分の親しい後輩に文句をつけるのは許さないって言いたいのか。一瞬、この人いい人? なんて思ったわたしがバカだった。
よく見ると、目の奥は笑ってない気がする。
自分の言葉をわたしがどうとったか気づいたらしい。
「ああっ! ゴメンゴメン、言い方がよくなかったね!」
藤原さんはにわかにあわてだす。
「誤解させたね。こわがらせちゃった? ホンット、マジでゴメン!」
手を合わせてひたすら平謝りする姿に、毒気を抜かれる。
不良っぽいキケンさは(たぶん最初からわたしが勝手にそう感じてただけだろうけど)すっかり霧散していた。
「……大げさな」
「はうっ! 美音ちゃん、手きびしいね……」
かすかな呟きを拾ってまたもや大げさなリアクションをする藤原さんに、わたしはますます目をすわらせる。
「わたしは一応、客なんですが。いきなり名前呼びとか、子供扱いのタメ口とか、やめてくれませんか」
わたしがそう言うと、藤原さんからふざけた感じがすっと抜けた。
「ボクは、ボク個人としてキミの話が聞きたいんだ。客でも高校生でもない美音ちゃん、キミという人間にね」
真剣な目は底知れなくて、やっぱり少しこわい。でも、わたしは逃げたりせずに向かい合った。
「そうですか。わかりました」
わたしは、林田さんの行動で気になった部分を、ひとつひとつ挙げていった。
殺気を振りまいて、常に車内の空気を悪くしていること。車内アナウンスを、勝手に流れるもの以外一切流さないこと。そのせいで、車内事故のリスクが高まっているようにわたしには感じられること。そして今朝の、高齢女性とのやり取り。
『大事な弟分』の悪口をこれだけ並べられて、怒るかと思ったけど、藤原さんは意外なほど落ち着いていた。
それどころか、なんだか楽しげに唇の端っこをつり上げている。何!?
「期待通りだよ。妬みじゃない、真っ当な批判。物怖じしない、まっすぐな態度。ボク、そういう子、好きだな」
「すっ!?」
動揺しかける。危ない危ない。本気にしちゃダメ。だって、相手は藤原さんだもん。初対面でいきなり、近距離からのぞきこんでくるような人だもん。
「からかわないでください」
ジトっとした目を向ける。藤原さんは全く気にするそぶりを見せずに続けた。
「気に入った。美音ちゃん、空瑠斗を変えてくれないかな。キミならできる気がする」
唐突にお願いをされる。何がなんだかわからない。そもそも
「あの……空瑠斗って誰ですか」
「あっゴメン! 言ってなかったか。あいつの下の名前、空瑠斗っていうんだ。林田空瑠斗」
空瑠斗。そると。ソルト。salt。英語で、塩。
「ぷっ」
ヤバい。笑いの発作がおさまらない。
あの塩対応運転手、名前まで塩!? お似合いすぎるんだけど!
「どしたの?」
いやいや。ダメだよね、人の名前を笑っちゃ。
「ごめんなさい、なんでもありません」
「そっか。で、返事は?」
「何をやれと言われているのかもあやふやな状態で、返事もなにもないでしょう」
「それもそうか」
藤原さんは腕を組んだ。
「ボクも美音ちゃんとおんなじで、空瑠斗はこのままじゃダメだと思うんだ。でも、何をしたらいいかわからなくて。キミの力を借りたいんだけど、う〜ん……とりあえず、空瑠斗のバスを、改革してほしい、かな」
彼がひねり出した具体的なお願いに、拍子抜けする。
「わたしは今朝、それをお願いしに営業所まで行ったのですが」
「あそこのやつらに言ってもムダだよ。空瑠斗の態度は、認められてるから」
藤原さんはため息をついた。
「なぜです。バス会社として売上を落とす原因は取りのぞくべきでは?」
「キミが行ってるの、商業高校だっけ?」
冗談ではぐらかすつもりだったとおぼしき藤原さんは、
「いいえ。いたってフツウの高校ですけど」
すました返答をされ、
「県内トップ6の名門進学校をフツウと表現していいのかは疑問だけど……」
わたしの制服を見て苦笑いを浮かべた。
そんな彼をじっと見つめる。
藤原さんは根負けしたように本題へ戻った。
「あいつは、ちょっとワケありでね。注意して行動を変えさせるってのが、難しいんだ」
「言っても聞かないと?」
「いや、それも確かにあるけど……」
煮えきらない態度に少しイラッとする。
「こちらに要求するのに、事情も言えないんですか? 話になりませんね」
「わあっ! ゴメンゴメン! 行かないで!」
立ち去ろうとすると、藤原さんはすがるようにまた平謝りを始めた。
「……すぐさま自分の非を認めるのはいいことですが、謝罪の言葉もあまり使いすぎると安っぽくなりますよ」
「ああっ! ゴメ」
藤原さんはまた謝りかけて、口を押さえる。そのまま、捨てられた子犬みたいな目でわたしを見た。
「……わかりました、協力します」
しぶしぶ言うと、藤原さんは、パアッと顔を輝かせる。
「ありがと、ホンットに助かる!」
わたしの手をムリヤリにぎって、上下にブンブンふり回したのだった。
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