静寂の一間

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 小さなアパートの一室に、不気味な雰囲気の男がいた。  肩まで伸びた髪はボサボサで、お洒落ではなく単に切るのを怠けているだけと思われる。  無精ひげと垢にまみれた顔は真面目な形相で片手に持っていた本を睨みつけており、もう片方の手はペンキの付いたブラシを掴み、床に何やら奇妙な……魔法陣のようなものを描いていた。  小さな懐中電灯一つしかない室内は薄暗く、閉め切られたドアや窓にはガムテープで目張りがされており、外が昼なのか夜なのか、それすらも判別がつかない。  だがそんなことを男は全く気にした様子もなく、乱雑に描かれた魔法陣の上に座ると、鼻が付きそうなくらいに本に顔を近づけ、ブツブツと小さく呪文を唱え始める。  その表紙には、「悪魔の召喚」と書かれていた。  男がその本を手に入れたのは、ほんの少し前に見かけた古物露店でのことだった。  つい先日に勤めていた会社をクビになり、社長や社員の悪口をブツブツと呟いていた彼は、露店の片隅に置かれたソレを目ざとく見つけると、店の主人の言葉も碌に聞かず、「自分は今無職で明日の飯にも困る日々だ。そんな奴から金をとろうというのか」とまくしたて、無理矢理に奪い取ったのだった。  中にはタイトルの通り、様々な悪魔の召喚方法が描かれていた。  色欲を満たす悪魔、金を生む悪魔、知識を授ける悪魔……。  その中で男がひと際興味をひかれたのは、気に入らない人間を好きなだけ殺してくれる悪魔だった。  「なんて素晴らしい。これなら今朝自分を汚いものを見るような目で見つめたあの男も、自分をばかにしたあの社長や社員も、こんな自分に手助けの一つもしないあの親どもも、全部一気に消し去ることが出来るのか」  男はそう喜んで、さっそくその悪魔を召喚してみることにした。  用意自体は単純だった。  特別な魔法陣を描き、そこの中心に座って呪文を唱え、召喚された悪魔に願いを告げるだけ。  だがだからと言ってあっさり済ませてはいけない。  自分を聡明と信じて疑わない男は、まずその悪魔の弱点を調べてみた。  なにせ所詮は悪魔、召喚するやいなや自分を殺して魂を奪ったりすることだって十分にあり得るだろう。  本に書かれていた名前をもとに調べてみたところ、その悪魔は光を力に変えるという。  なら光が当たらないようにすればいい、と思い至ると、召喚する場所を自分のアパートの部屋に決め、更にわずかな太陽光、月光さえも届かぬよう、雨戸を閉めるだけでは飽き足らず、窓やドアの隙間にはきっちりと目張りをし、遮光カーテンを何重にも張り付けて、昼間でも目の前の手のひらすら見えないほどの闇を作ることに成功した。  だがまだ油断はできない。いくら召喚に成功し、その力を奪えても、家賃を迫る大家や、ガス、水道などの請求者が訪ねて来て邪魔される可能性もある。  そこで男は表の扉には「旅行中」の立て札をかけ、大量の鎖と南京錠で内側から扉と窓をしっかり固定した。  そしてそれらの鍵を適当な場所に放り投げると、懐中電灯の明かりを頼りに魔法陣を描き始め、悪魔の召喚に取り掛かったのだった。  呪文を唱え終えると、光をなくすために懐中電灯を消すが、ただのペンキで書かれていたはずの魔法陣が怪しく光る。  そして次の瞬間、怪しげな煙を大量にまき散らしながら、蝙蝠の羽根と蛇の顔、そして人の身体を持った、正真正銘の悪魔が、男の目の前に現れたのだった。 『よくぞ私を召喚したな主よ。さぁ、願いを言うがいい。我が力をもってすれば、お前が憎いと思う者、その全てを一瞬で塵に変えてやろう』  蛇の顔からは想像もつかないようなしわがれ声が部屋の中に響き、男の返事を待つ。 ……が、男の方はそれどころではない。  召喚の折に噴出した大量の煙はあっという間に部屋に充満し、視界の効かぬ男は何が起きたかもわからぬまま咳き込んでいる。  目張りされた部屋から煙が逃げることはなく、たまらず部屋から出ようにも、窓と扉は鎖と錠でガチガチに固定され、更に手にしていた懐中電灯を慌てるあまり放り出してしまったため、鍵がどこにあるのかさえもわからない。  喉を開ければ途端に肺を煙が満たし、咳が必死にそれを吐き出そうとするものだから、悪魔にそれを訴えかけることもできず、一方の悪魔も、元々闇に弱いため、わずかな光もない部屋の中の様子を伺うような力もなく、返事のない召喚主に首をかしげるばかり。 『なんだ、どうかしたか主よ、さぁ願いを言え』  部屋の中に悪魔の声が響く。だが返事は当然なく、絶え間なく聞こえていた咳き込む声も、いつの間にか消えていた。  真っ暗な部屋、見えるのはペンキで書かれた粗末な魔法陣の、何にも反射することのない淡い光だけ。そんな静けさの中で、悪魔はただ一匹、自分はいつまでこうしていればいいのだろうかと、まだ見ぬ主の末路に気付かぬまま、じっと魔法陣の中で待機していた。
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