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老虎の睨みなど気にもしない様子で、兎族の男は淡々とした口調で言った。
「わざと危なくしているのではありませんか。私の部下たちを痛い目に遭わせたくせに、なんです? これしきのことで、意気地のない虎ですね」
「うっせー」
(捕まった奴らは王宮に送られたに違いねえ。ここで、こいつとやり合っても意味がねぇな。シェイドたちだけでも逃がすしかねえ)
老虎はそう判断をする。それから近くの壁を蹴り上げたかと思うと、強剛な爪を活かし、広間に面している大聖堂の壁を一気によじ登った。
「逃がしはしませんよ!」
兎族の男は大きく跳躍した。兎の脚力と、魔法の力とが加わって、彼は自由自在に壁を伝わって老虎を追い詰める。華奢な見た目に惑わされそうになるが、その身体能力は高い。
「しつけぇよ!」
「貴方こそ。いつも私の邪魔をしようと出てきますね。ああ、しかし、一度も邪魔が成功した試しがありませんでしたね」
「なんだよ。あんたもおれのこと、覚えてるじゃねーのか!」
「目障りな虎。覚えない方がおかしいでしょう?」
「クソ野郎! いつかぎゃふんと言わせてやんよ!」
老虎は男が放つ魔法の炎を交わしながら、地上にいる仲間たちの居場所を確認する。彼らが逃れられればいい。この兎族の男が、自分に気を取られている間に、彼らがアジトへと続く通路に潜り込めればこっちのものだ——と思った。
(なるべくシェイドたちから離れるぞ)
あちらこちらの屋根を伝い、老虎は王都を駆け巡った。兎族の男は執念深く追いかけてくる。
「ち、本当にしつこいな」
老虎は二階の屋根から飛び下りて、地上に降りたかと思うと、今度は地面を蹴り上げ、一気に兎族の男の背後に躍り出た。
「なんです……てっ」
男が声を上げようとしたその喉元に、老虎は剣先を突きつけた。
「鬼ごっこは終わりだ。形勢逆転だぜ? うさぎちゃんよぉ。あんたは食物連鎖では下の種族だぜ? おれたち肉食獣に食われるほうだ」
剣先を避けるかのように、男の顎は自然と挙上される。それに伴い青白い月の光を受けた喉元があらわになる。
(この喉元を噛みちぎりてぇ)
老虎は殺人衝動に駆られた。野生の本能は時折、自分を悩ませる。獣族は、社会という仕組みの中で生き抜くため、獣の部分を抑え込まなくてはいけない。
老虎の場合は、その残忍性だ。もともと肉食で、食物連鎖のトップに君臨する種族である。他の弱い獣族を狩りたい——という衝動が、時々むっくりと頭をもたげるのだ。
——王都に行くなら、それを自制するのだぞ。
長老に言われた言葉に、はったとした。兎族の男は、そんな老虎の心理状態の変化に気がついたのか、動かぬままに「ふふ」と笑みを見せた。
「どうしました? 殺せばいい。迷う必要はありません」
「おれたちは人殺しはしねぇんだ。けど、自分の命が危ない時は、致し方ないとされているぜ。だから今ここで、あんたを殺したって、別に問題はねえ」
「そうですか。ならばさっさとしなさい。私は貴方の仲間を捕らえる敵です。戦場では、敵に情けをかけてはなりません。その甘さは、いずれ自分に返って来るものです」
「——ち」
宝玉のような真紅の瞳で見据えられると、心の奥底がぞくぞくとして、堪らなくなるのだ。胸の高鳴りを必死に抑え込むように、深く息を吐いてから、老虎は剣を鞘に納めた。
「見逃すのですか。甘いのか。それとも意気地がないのか」
「どう思われようと勝手だ。これがおれだからな」
兎族の男は口元に笑みを浮かべたかと思うと、ふと空を仰いだ。
「貴方のお仲間はアジトに潜り込んだ頃でしょうか」
「あんた。時間稼ぎだって知っていて……?」
「そうですよ。面白い鬼ごっこだ、と思っただけです。それに、我々の目的は十分に果たしましたからね」
「ふざけやがって」
老虎は男に拳をぶつけようとするが、「ち」と舌打ちをしてから、その手をおろした。
「殴るのもやめるのですか?」
「あんたのことは殴らねぇ」
(んな綺麗な顔、殴れるかよ……)
「野蛮な種族の考えていることは理解に苦しみます」
「なんとでも言えよ。もういいぜ。あーあ。なんだっていいや。——クソ。なんであんたは、王宮にいるんだよ。王宮の奴らは獣族を迫害しているって聞いているぜ。なんでまた……。あんた、本当に王宮にいたいのか?」
老虎の問いに、男の目元が微かに動く。しかし、彼は表情を崩すことなく答えた。
「獣族の血が入っていようとなかろうと。私の使命は王宮にいることなのです」
「はあ? 意味わかんねーし。自分の居場所くらい自分で決めろ」
老虎の言葉に、男の目が見開かれた。
「おれは一族を置いてきた。王都でやりたいことがあるからだ。それはおれが決めた生き方だ。一族には戻れないかもしれねーけどよ。それでもおれは、ここでやりてーことがあるんだ。自分の生き方くらい、自分で自由に決めたらいいだろう? なんだよ。使命ってよぉ」
(そうだ。おれは、もう——戻れねえ)
老虎はじっと兎族の男を見据えていた。彼もまた、老虎を見ていた。しかし、ふと首を横に振った。
「やはり、貴方は賢くはないようですね」
「な、なんだと、コラ!」
兎族の男は怒っている老虎に臆することなく、その凛とした視線を向けてきた。
「貴方は自分の人生を自分で決めてきたと言いますけれど、私だってそうです。私は自分に課せられた使命を全うする、と決めているから王宮にいるのです。人の事情も知らないで、知ったような口を利くのは、やめてもらいたい。学のない者はこれだから困る」
「は、はあ!? おま、お前よぉ。確かに頭悪いかも知れねーけど、お前に言われたくねーよ!」
老虎は憤慨し、両手を振り上げて地団太を踏んだ。兎族の男は呆れたような顔をし、老虎を見据えていた。
「自由とはなんです? なにをもって自由というのですか。自分の選んだ場所で生きていて、なにが悪いのです」
「悪くはねーけどよ。あんたは本当にそうしたいって、心から望んでいるのかって言ってるんだ。確かにおれは一族には帰れねえって制約つきかも知れねえけどよ。少なくとも自分の心には正直になっているぜ?」
老虎の言葉に、男の瞳の色が揺らいだ。少しは老虎の言葉が響いている証拠だ——と思った。老虎は低い声で言った。
「あんたは、本当に自由なのか?」
しばしの沈黙があった。男は困惑したように視線を伏せる。
「貴方のように自由奔放に生きられる者ばかりではないのです」
「なんだと?」
老虎は思わず男の真紅の瞳を覗き込んだ。
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