第一章 兎と虎は戦場で出会う

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 サブライムは両手で耳を塞ぎながら「うるさいなあ。もう深夜だぞ。静かにしろ」と言った。しかしピスは、引き下がる様子はない。 「確かに明日——、いえ。本日は、リガートとの約束の日ではありますが、だからと言って、貴方が行く場面ではありません。いいですか? 隠し隠し育ててきた歌姫の生まれ変わりである凛空(りく)の存在が、明日、とうとう明るみに出るのです。カースが黙っているわけないではないですか。  歌姫の生まれ変わりが、この世に生を受けた時も、私とリガードが全力で、やっと彼を撃退したような状況です。貴方が現地に赴かれて、無事でいられる確証はありません。危険すぎます!」  ピスは一気にまくしたてるが、サブライムは両耳を押さえたままだ。 「大丈夫だ。カースとは接触しなければいいのだろう? リガードが町から上手く凛空(りく)を逃すと言っている。おれは、約束の場所で待機しているだけだ」 「リガードは高齢です。もし、万が一にもカースを抑えきれなければ、対峙することにもなりかねないのです」 「だったらお前が言う、その先鋭部隊とやらでは用が足りないだろう? おれやエピタフも行くべきだ。そうだろう? エピタフ」  二人の様子を眺めていたエピタフは、ため息を吐いてから淡々とした口調で返した。 「サブライム。私もピスの意見の同感です。カースの力は侮れないのです。例え、他の誰が犠牲になろうとも、貴方は生き延びなくてはいけません。ここは私が行きましょう。私にお任せてください」  しかし、サブライムは眉間にシワを寄せた。 「不本意だ。お前が行っても危険なことには変わりはないだろう? おれはお前を失うわけにはいかないんだ。自分だけ安全な場所にいて、他の者たちを危険にさらすなど、おれの意思に反する」 「理解しています。貴方が良しとしないことは十分に理解しています。けれど、今回だけは私もピスの意見に賛成です」  エピタフは厳しい口調で言った。サブライムはさすがに黙り込む。 「ピスとリガードが現役時代に、カースと戦っています。二人の力をもってしても、取り押さえられなかった邪悪な存在です。皆が犠牲になるわけにはいかないのです。    凛空は、私が命に代えても王都に送り届けます。ですから今回は、王都で大人しくしていなさい。危険なことは私が担います。貴方は、凛空を歌姫として覚醒させ、カースを封印するのです」 「エピタフ……」 「話は終わりです。少々疲れています。明日は私が参ります。それが決定事項である——それで、よろしいですね?」  ピスは「承知した」と言った。その返答に満足し、エピタフはまだまだ不満そうに眉間に皺を寄せているサブライムをきつく見据えた。 「いいですね? くれぐれも勝手な真似をすることのないように」 (そんなことを言ってみても、貴方の心の内は変わらないということくらい知っていますよ。サブライム)  自分で決めたことは、命に代えても成し遂げようとする王だ。ここでいくら時間をかけて説得しても、彼は一人で出かけていくに決まっている。エピタフはそう理解していた。  しかしピスの気持ちもわからないではない。心配しているのだ。無鉄砲で、怖いもの知らずの王の身を案じているのだ。 (だから私がいるのです。私ならいくらでも換えが効く)  エピタフは声を和らげてサブライムとピスに頭を下げた。 「申し訳ありませんが、今日は休ませてください。昼前には参りますので」 「——すまなかったな。お前も疲れているだろうに。革命組の確保、ご苦労だった」  サブライムの言葉に、エピタフは首を横に振ってから執務室を後にした。  長い廊下を歩く途中、ふと壁に大きく掲げられている絵画を見上げた。そこには、猫族の人物画が飾られていた。  黒い耳が愛らしい。陶器のように白い肌。仄かに赤らむ頬は、まだあどけなさを感じさせる。漆黒の瞳は、まるで吸い込まれそうなくらい深い。  ——歌姫。  この黒猫の獣人は、五百年前に起きた戦争の火種を作った邪悪な存在、カースを封印したとされる伝説の歌姫の肖像画だ。彼は王宮の聖歌隊に所属していた猫族の獣人だったそうだ。五百年前の王宮は、種族など関係なく様々な者たちが出入りしている場所だった。  しかし、当時から王宮の主要なポストは、人間族が座っていた。人間族は獣族を恐れていたのだ。獣族たちは獣の血により様々な身体的能力を秘めていた。分け隔てなく平等の世界——とは言いつつ、人間族はその持っている知恵を駆使し、獣族たちを権力から遠ざけていたのだ。  そんな中、獣族の出身であったカースは自分の能力を認めない、人間族への恨みを募らせ、獣族たちを焚きつけて、争いを引き起こした。それが五百年前に引き起こされた戦禍の要因である。  カースはどこの誰よりも邪悪な闇の力を秘め、当時の大臣たちですら、何人も命を落としたという。そんな絶大なる闇の力を封印することが出来た唯一の存在。それが、この黒猫の獣人である歌姫だった、というのだ。  彼はカースを封印するために力を使い果たし、その身は朽ちた。魂だけになったてもなお、五百年の間、カースを眠らせてきたのだが——。  十数年前。何者かがカースの封印を解いた。それに伴い、再び世に放たれた邪悪なる存在を封印すべく、歌姫の魂もまたこの世に転生した。  それが猫族の少年、凛空(りく)という存在だった。  歌姫の存在は、国家の最重要機密だ。カースに隠し、十八歳の成人を迎えさせ、そして歌姫として覚醒させる。これは、現国王であるサブライムに課せられた最重要課題でもあった。 (サブライムは、誰がなんと言おうとも、凛空を迎えに行くだろう) 『エピタフ! 見てみろ。凛空が聖歌隊のプリマに選ばれたそうだ。歌姫の魂を宿しているとはいえ、凛空本人の努力の賜物だな。毎日歌の練習を頑張っていると書いてあるぞ。ああ、どんな声で歌うんだろうな。早く会って聞いてみたいものだ』  定期的に届く報告書を眺めるサブライムの横顔は、いつも見たこともないくらい幸せそうだった。 (貴方は凛空に恋をしているのですね。——黒猫は獣族なのですよ?)  建国来、王族に迎えられた獣族の人間は一人もいない。それがはるか昔からの仕来りだったからだ。しかし——サブライムは凛空をつがいにするつもりだ——。エピタフの心は複雑だった。 (ずっと共に過ごしてきた。私にとって、貴方は太陽みたいな存在でした。しかし、貴方の心はずっと凛空を向いたままです)  エピタフは軽く息を吐くと、廊下を歩き、外に控えていた馬車に乗り込んだ。もうすっかり西の空は明るくなってきている。魔法大臣として、彼に休息の時は訪れることはなかった。  エピタフは馬車から見える街並みを眺めてから、瞼を閉じる。 (獣族は王族のつがいにはなれない。そう言いきかされてきたから、諦めもついたのに。貴方は凛空をつがいにするのでしょうか。サブライム。私は貴方の何なのでしょうか。私は——ここにいてもいいのでしょうか?)  人間族でもない。獣族でもない。半端な自分の存在は、王宮の中では常に危うい。 (自分の心に素直になれるわけがない。私は選べないのです。自由に選ぶほどの選択肢が、私の中にはないのです) 「なんだか疲れましたね……」  誰もいない車内に響くエピタフの声を聞く者はいない。彼はじっと押し黙ってしばしの休息を味わった。
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