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今夜は光鍋パーティーをするぞ、と畔先輩が言ったので、ぼく含めレジャー同好会のメンバー四名は一斉に彼女を凝視した。
大学のサークル棟の角部屋で古いコタツにぎゅうぎゅう詰めになりながら、トランプゲームをしているときだった。その輪から外れて、ひとり季節外れの水鉄砲を弄っていた畔先輩が、突然立ち上がって宣言したのだ。
それまでの賑やかさが一瞬静まったので、畔先輩は怪訝そうにぼくたちを見た。窓から射す日差しが、先輩の長い黒髪を照らし出す。逆光なのに、先輩の目はきらきら、いや、ぎらぎらと輝いている。黙っていれば美人、という表現がこの世にはあるが、黙っていても暴君、という表現をしたくなる視線だ。いや、美人でもあるけれど。
「先輩。こないだ闇鍋パーティーしたじゃないですか。あれで懲りたんじゃなかったんですか」
「ああ?」
畔先輩の威圧的な睨みに、声を上げた棚沢はぼくを見た。特徴的なツインテールまでもがぷるぷる震えている。
しかし、なぜぼくを見る。
「光鍋と闇鍋は違う。そもそも君たちは光鍋の何たるかを知っているのか?」
言われてみれば、光鍋の何たるかなど、ぼくたちはよく知らなかった。また若干の沈黙が流れたが、今度は誰も口火を切ろうとしない。仕方なく、見つめてくる棚沢の視線に負けたわけではないが、ぼくが答えた。
「闇鍋の反対ですから、普通の鍋なんじゃないですか」
「不正解だ、祝子君」
にやにや笑いながら、畔先輩は言う。元から答えなど期待していなかったのだろう。この人はそういう人だ。
「光鍋の何たるかを知らない君たちに、それを知る機会を提供してやると言っているわけだよ、私は」
「じゃあ今は教えてくれないんですか」
よせばいいのに、また棚沢が声を上げ、今度もまた睨まれた。
「そう言ってるのが分からないのか?」
「はいぃ……」
すっかりしょぼくれて、棚沢は肩を落とす。正体不明の催しの正体を確かめたいのにそれができない、しかも自分達がそれに参加することはほぼ確実なのだ。そうなるのも仕方ない。
「集合は六時、私の家だ。絶対来いよ!」
さっきまで眉根に皺を寄せていたのが別人のように爽やかな笑顔を残して、畔先輩は部室を出て行った。
「祝子先輩。私たちは何を食べさせられるのでしょう……」
夕方五時、大学の正門に向かうぼくに付いて来た棚沢が、長く深いため息をつく。
「光鍋って語感から考えると、闇鍋よりはマシなんじゃないの」
「それならいいんですけど」
前回の闇鍋は年末、吹雪の晩に行われた。めいめいヤバい具材を持ってこいと言われたメンバーが各々の価値観に照らし合わせて『まあヤバいと言ってもいい』と判断した常識的かつ良心的な具材を投入し、途中まではまあまあ普通の、暗闇の中での寄せ鍋として楽しめていた、のだが。
「畔先輩のアレはヤバすぎましたよね。よく誰も体調崩さなかったです」
棚沢の言葉通り、畔先輩の持ち込んだ具材はヤバすぎた。食べられるか食べられないかという線ギリギリを攻めて来ていたし、あれはギリギリ食べられない側に属していたと思う。
「あれはもう過ぎたことだ、忘れよう。今回は光鍋だし、ぼくたちが用意しなくてはいけないことは特にないらしいし、楽でいいんじゃない」
「いや、それが逆に怖いですって」
暗くなってゆく空の色が、棚沢の憂色に反射する。足元に転がる雪塊を危ない足取りで避けながら、棚沢は言う。
「あの畔先輩完全プロデュース鍋ですよ。前回はまだまともな食材が九割を占めてたからなんとかなりましたけど……寒気してきました」
暖かそうなコートを着込んだ棚沢は、その小さな体を震わせた。
「ぼくも怖いけどね」
「え? そんなに平然としてるのに」
意外そうな顔をされるのは心外だ。この後輩はぼくを何だと思っているのだろう。
「平然となんてしてない。ほら、足が震えてるだろ」
「見えませんけど」
「ともかく、メンバーが揃ってないと畔先輩は満足しないだろうし、ぼくらは行くしかない。ぼくたちの目的のひとつは、畔先輩を満足させることでもあるわけだし」
「それはそうですけど……」
尚も唇を尖らせながら、棚沢は歩道を睨む。
「祝子先輩。私たちだけでも……いや、祝子先輩だけでも逃げちゃいません?」
逃亡のお誘いにしては妙なセリフだ。赤信号に足を止め、ぼくは棚沢を見下ろす。
「どういう意味?」
「いやー、その……畔先輩はきっと、ひとりメンバーが欠けてても気にしませんって。祝子先輩は最近レポートでお疲れですし、途中でそっと抜けたって大丈夫ですよ」
先ごろ部室ではぼくに先陣を切らせるような眼差しを向けてきた癖に、今度は謎の気遣いを発揮してきた。その意図が読めず首を傾げるぼくに、棚沢は「いや、いいならいいんです」とすぐに前言を撤回した。信号が青になり、棚沢が先を歩き出す。
「先輩がいない方がスムーズだと思うんだけどなあ」
そんな呟きが聞こえた気がした。
「え? 今、なんて」
「そういえば祝子先輩、畔先輩って何歳だか知ってます?」
強引な話題転換だが、それはかなり興味深い。
「もう十年くらい大学にいるとか聞いた。ぼくが入学した二年前には既にいたし。棚沢は知ってるの」
見た目はぼくらと変わらない畔先輩が本当は何歳なのか、今まで本人が教えてくれることはなかった。はぐらかされてしまうのだ。あまりに教えてもらえないので、一説によれば、自分でももう覚えていないのではとのことだ。
棚沢はニヤリと笑った。
「知りません」
「期待して損した」
畔先輩は、年齢含め、自らの個人情報を容易に明かさない。実のところ、彼女が毎回「私の家」と表現している場所もコロコロ変わるので、本当に彼女の家なのかは疑わしい。彼女のことだから、誰かを脅かして、メンバーが集まれるスペースや調理器具を確保しているのではないかと、誰もが思っている。
「まあ、畔先輩には年齢なんて関係ないんでしょうけどね」
「うん、そうだね」
話しているうちに、今日の目的地が見えてきた。『ここに集え!』というメッセージとともに送られてきた位置情報によれば、ここが今回の『畔先輩の家』の筈だ。
「にしても、デカい家だな」
やたらと塀が続くなと思っていたら、この家の敷地を囲むものだったらしい。玄関柵の隙間から見えるのは、広大な庭。今は雪に埋もれているけれども、立派な植木が幾本もある。反対側のスペースには立派な外車が停まっている。自動で柵が開いたので、ぼくたちは三階建ての立派な家に足を踏み入れた。
「お邪魔しまーす」
広い廊下を歩いて、いくつかの階段やトイレと思しきドアをスルーする。
「祝子先輩、足下気をつけてください。なんか濡れてます」
確かに、見るとそこここに水滴が輝いている。先に来た人の服に、雪でも付いていたのかもしれない。
初めに行き当たった部屋のドアを開くと、闇鍋のトラウマなんて忘れるような光景が広がっていた。
「おっ! 君たちが一番乗りだ!」
心底嬉しそうな畔先輩の背後に、大きな水槽。大きな、というのは、日常的に見る水槽の中での大きなサイズ、というのでは到底足りない。ぼくが日常的に見る水槽でいう大きなものはせいぜい、寿司屋や鮮魚店の店先に置いてある物だが、今だだっ広い居間にあるのは、水族館から盗み出してきたのかと思うような、畔先輩の背丈ほどはある水槽だった。水槽であるからには、中に何かいるのだろうが……と思った時、何かがゆらめいて見えて、棚沢が小さく悲鳴を上げた。
「先輩、その水槽は……?」
畔先輩は自慢げに顎を上げた。
「ふふん。気づいたか。これはだな、今日のメインディッシュだ」
「ええ……」
気の抜けた相槌を打ってしまったが、畔先輩はそれを感嘆の声だと思ったらしい。嬉しそうに説明を続けた。
「これは我が校の海洋学部生から快く譲ってもらった、暗闇で光る海産物たちだ。こっちの小さな水槽にはウミホタル、大きな水槽にはホタルイカと光るクラゲが元気に泳いでる」
ホタルイカは食べられる。それは知っているが、ウミホタル? 光るクラゲ? 聞いただけで、それが食用ではなさそうなことくらい、文学部のぼくにだってわかる。
棚沢が呻き声を上げる。
「海水でないと光らないからな、海水と同じ塩分濃度にした水に入れて光らせつつ、火を通して食べるんだ! これ正しく光鍋……って、棚沢、大丈夫か?」
棚沢は床に倒れ込んでしまった。
気持ちはわかる。
それからどのような恐ろしい場面が展開されたかは思い出したくないので割愛するが、諸々の魔術儀式めいたあれこれの後、大きな家の各階に設置されたトイレに感謝しつつメンバーが出入りを繰り返す中、ぼくは棚沢の介抱をしていた。結局、棚沢はファーストインパクトに耐えられず気を失い、結果的には幸いなことに、鍋の中身が空になるころ目を覚ましたのだった。
「祝子先輩、光鍋は……」
「もう終わったよ、安心していいよ」
誰のものかもわからないベッドに寝かせられていた棚沢は半身を起こし、ため息をついた。
「畔先輩の様子はどうですか」
畔先輩は絶好調だった。光鍋を楽しんでいるのかぼくたちが苦しむ様を楽しんでいるのかはわからないが、終始にこにこと笑顔で、頼んでもいない特別トッピングやら何やら、世話を焼いてくれさえした。
その様子を黙って聞いていた棚沢はベッドから降りた。
「トイレに行ってきます。居間に行く勇気はないので戻ってきますから、祝子先輩、待っててくださいね」
そう言って、行ってしまった。
閉まったドアを見つめて、何分か経ったろうか。そう言えばデザートのアイスだけ、棚沢の分が残っていたのを思い出した。持ってきてやろう。
ぼくも部屋を出た。
居間に着くと、思った通り、畔先輩が成仏しかけていた。他のメンバーが見守る中、毒気の抜けた顔で辞世の句を遺そうとしている。
「今日は楽しかった。光鍋、最高だったな。生きている間には思いつきもしなかったアイディアだったが、死んで何年も経ってから思いつくとはね。……お陰でようやく、成仏できそうだよ」
不慮の事故で大学在学中に亡くなった畔先輩は、所属していた部活でもっとみんなと楽しみたかったという未練のため、幽霊になった。彼女の突拍子もない企画に部員たちが付き合っているのは、彼女の気持ちを満足させられれば、成仏してくれると知っているからだ。
「向こうでも楽しく部活やってください」
「なんだかんだで俺たち楽しかったっす」
メンバーの言葉に頷きながら、畔先輩の姿が薄くなってゆく。ああ、今度こそ。今まで何度もすんでのところで失敗してきたけれども、今度こそ、ちゃんと……。
ガチャリ。
背後で、ドアの開く音がした。
「あれ? 棚沢、なんでここに」
驚いたような声と共に、祝子先輩が入って来た。それは私のセリフだ。
「祝子君……」
畔先輩が、祝子先輩を見つめる。見つめてしまった。
また失敗だ。
畔先輩の、薄くなりかけていた体が元に戻る。せっかく忘れていたらしい未練を思い出してしまったから。名前が似ているというだけで弟のように気にかけているらしい、祝子先輩という未練を。
畔先輩は復活した。和らいでいた視線に、またギラギラが戻った。
「そういえば私にはまだやりたいことがあった。思い出したよ。まだまだ成仏なんてできない」
私たちはちょっと肩を落とし、事情のわかっていない祝子先輩だけオロオロしている。
でもまあ、仕方ない。さっきのメンバーの言葉ではないけれど、畔先輩のいる部活は、なんだかんだ言って楽しいのだ。
「じゃあ手始めに、棚沢君。君は寝ていたからな、残った鍋を一緒につつこうじゃないか」
前言撤回。やっぱりこの人はさっさと成仏させるべきだ。
「それなら、祝子先輩がもっと食べたかったと言ってましたよ」
「なっ……? 棚沢、何を」
祝子先輩は慌てふためくが、畔先輩は嬉しそうに目を細め、祝子先輩の腕をがっしりホールドしてしまった。
「畔先輩、ぼくはもう食べましたって……! 先輩……!」
祝子先輩の悲鳴と、畔先輩の笑い声が、深まっていく夜に響き渡った。
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