ますます静かになってゆく

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 冬の大三角を見に行きたいと弟がせがむので、私は仕方なく夜中にこっそり部屋を出た。小さな弟は父のお下がりのだぼだぼのコートを着て、暗い扉の前で私を待っていた。二人して顔を見合わせ、息を潜めてそっと扉を開け、身を滑り込ませ、またそっと扉を閉めた。 「冬の大三角はね」 「しっ」  私たちの住む家からは出たものの、ここらにはまだたくさんの家がある。弾む声で喋り出そうとした弟に首を振って、無言で歩き出す。  暗いトンネルの中、ほのかに光る発光石の青白い光だけが頼りだ。足元にはたくさんのケーブルが走り、家々の扉に開いた穴に繋がっている。トンネルの外にあると聞く発電機や浄水器、空気清浄機その他のライフラインから、幾本も伸びているのだ。私たちはそれを踏まないように注意しなくてはならなかった。どれかひとつでも傷つけたら、きっとただでは済まない。  私たちのトンネルには十世帯が住んでいる。最後の家の扉を越えるまで、私たちはひたすら黙々と歩いた。 「お姉ちゃん」 「ん、もういいよ。冬の大三角が何だって」  私の上着にしがみついたまま、弟は小さな声で話し始めた。 「冬の大三角は三つの綺麗な星でできててね。その星はおおいぬ座とこいぬ座と、あと、あと……」 「オリオン座」 「そう、オリオン座にある星でできてるの」  弟はいつも、そこでつまずく。大きな犬と小さな犬は覚えているのに、オリオンのことは思い出せない。同じように、夏の大三角の話をするとき、弟はいつも、こと座を忘れた。 「犬ってかわいいよね。でも、本に載ってるオリオンの絵はかわいくなかったな」 「たしかに、そうかもね」  犬なんて、絵でしか見たことがない。もちろん、オリオンだってそうだけど。本に載っている限られたイラストでしか、私たちは世界を知らない。かつてあった、トンネルの外に広がっていた、世界を。  弟が咳き込む。  慌てて背中を撫でてやるけれど、なかなか発作は止まらない。けほけほという咳に、ひゅうひゅうという隙間風のような音が混じり始める。どうしたらいい。  一瞬、足が後ろに向いた。けれども、弟は私の上着を握る手に力を入れて、首を横に振った。 「ふ……さん、か……」 「わかった、戻らないから。わかったから」  星なんて、見られるのかわからなかった。父も母も、他の大人の誰も、トンネルの外を見たことはなかった。そこは有害物質が漂うこの世の地獄で、分厚く垂れ下がった雲が触れられるほど近くにあって、人の姿なんて見当たらない場所だと教わった。かろうじてトンネルを掘り進めて避難した私たちの祖父母とその子孫以外には、もうこの星に生きている人はいないのだと。  昔は家畜を飼ってその肉を食べたり、野菜や果物を育てたり、海で漁をしたりして、人は食事を楽しんだと絵本で読んだ。トンネル内で養殖しているキノコや昆虫の味しか知らない私と弟は、それらの味を想像して涎を垂らしたものだ。  弟の呼吸が僅かずつ回復していくのを見守りながら、あの絵本を持ってきたらよかったなと思った。何年も色んな人の手を渡ってぼろぼろになっていても、褪せた色でも、それが鮮やかで美しいことが、私たちにもわかっていた。それを見ているときは、自分もその時代に生きているような気がした。だから、今ここにあってくれたら、きっと弟の発作ももっと楽になるだろうに。  やがて、弟は少し落ち着いた。もう一度念押ししようかと思ったけれど、発光石に照らされた眼差しが前だけを強く見ているので、やめた。 「夏の大三角も、見たかったな」  歩き出しながら弟が漏らした本音に、思わず奥歯を噛み締める。弟が星の本を読めるようになったのはついこの間のことで、夏の大三角について知ったのは暦でいえば秋のことだった。年中トンネルにいる人間にとって季節なんてもう慣習以外の意味を持たなかったけれど、夏の大三角と冬の大三角を知った私たちには、意味のあるものとなった。  弟の発作がひどくなり、両親の顔が暗くなっていくのと並行して、弟の気持ちは明るくなっていくようだった。冬の大三角を見たい、と言い出したのは、いよいよ薬が効かなくなってきた年末のことだ。  夏の大三角も見たかったな。  夏の。  見たかった。 「まずは冬のを見よう。話はそこからだよ」  前を向いたまま言うと、弟が嬉しそうに「うん」と返事をするのが聞こえた。  トンネルは深い。一体どのくらい歩き続ければ外に着くのか、実はよくわかっていない。けれど、ケーブルを辿って行きさえすれば、いつかは出られる筈なのだ。  時計というものが昔はあったらしくて、けれども全て壊れて今はそんなものを作れる人もいないから、私たちがどれだけの時間歩いているのか、わからない。トンネルの暗い壁には私と弟の呼吸と、ときどき混じる弟の咳だけが響く。もう、父と母は私たちの不在に気がついただろうか。それともいつものように静かに、死んだように眠っているのだろうか。 「お姉ちゃん。星、見られるかな」 「見られるよ」  弟の呼吸がまた怪しくなり始めたのを感じながら、私は続ける。 「絶対、綺麗だから。だから……」  げほ、ごほ、という咳。私はその軽い体を背負った。 「進むよ。星は絶対あるから」  弟が、咳き込みながら笑う。「うん」と笑う。それきり、黙ってしまった。  そうだ、眠っていたらいい。静かな眠りの中で、喉と胸に渦巻く嵐や希望のない生活のことなど忘れて、せめて何か楽しい夢でも見てくれたらいい。その間、私は歩いているから。  そして次に目を開いたときには、満点の星空を、冬の大三角を。  静かになってゆく。私と弟が、暗闇の中の点になってゆく。私と弟の胸の中の星空が、同時に瞬く。  背中が軽くなってゆく。  ますます静かになってゆく。  私は頬を濡らしながら、歩き続ける。
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