【愛人は妻の◯◯◯】

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「沢村先生っ!」 ごく稀に、街中で声を掛けられることがある。 俺のことを作家だと認識しているのは、相当な玄人ファンだ。 しかし振り返った先には、まだうら若き乙女が。 「あのっ、サインしてもらえませんか?」 そう言ってカバンから取り出したのは、俺の処女作である『陽炎』だった。 つまり、13年も前に出版されたもの。 唯一のヒット作は、家族を事故で失った男が、亡霊となって目に前に現れた家族と心を再生し、そして別れを迎えるというストーリー。 少なくとも、発売当初にこの子が読む類のものでも、まして今となっては色褪せて見えるのに…。 受け取った『陽炎』は、角が鋭さをなくし、手垢がついている。 「これ、私の愛読書なんです」 はにかむ表情はまだあどけなく、少女の面影を残していた。 だからいつも、持ち歩いているのか? 「沢村先生?」 「えっ、あぁ」 差し出されたサインペンを受け取り、サインを背表紙に書いた。 随分と書き慣れていないので、我ながら下手くそで申し訳ない。 「名前もお願いしていいですか?」 「あっ、はい」 そう返事をしたものの、なぜか名乗ろうとしないではないか。 「私のこと、分かりませんか?」 フフっと悪戯っぽく微笑む姿に、記憶の中の顔が重なっていく。
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