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【1】
ここは横浜の外れにある「くわしい探偵社」である。探偵社の小夜子さんは今日も暇を持て余している。
探偵社には依頼人はめったに来ない。そこで、小夜子さんは幾つかのバイトを掛け持ちしている。他の探偵事務所の仕事を手伝ったり、キャバクラのバイトなどである。
小夜子さんはオペラを観に行くことになった。
探偵社に遊びにくる川村映里さんが、オペラに出演することになり、その舞台を観劇するのである。
映里さんは女優で、舞台や映画に出ている。たいていは通行人とか居酒屋のお客という役柄だ。先日はテレビのミステリードラマで重要な役を演じた。そのときに小夜子さんはちょっとしたアドバイスをした。原作のままではトリックが成立しないことを指摘したのだ。撮影現場が混乱したとき、映里さんは小夜子さんのアドバイスを使ってうまく収拾した。そんなことがあったので、映里さんからオペラに招待されたのだった。
そのオペラとは、リヒャルト・シュトラウス作曲の『ナクソス島のアリアドネ』という演目だった。
観劇、それもオペラとなると着飾って行かなければなるまい。小夜子さんは何を着たらいいのか迷った。普段はカジュアルな格好だし、キャバクラの衣装では場所を弁えないと言われそうだ。そこで、映里さんに尋ねたら、普段着で構わないということだった。今度の公演は音楽大学の卒業発表公演なので著名な歌手が演じるのではない。服装も自由だし、気楽に観に来てくれればいいというのである。
映里さんは、自分が所属する劇団に音大の関係者がいるので出演を依頼されたそうだ。映里さんが言うには『ナクソス島のアリアドネ』は、劇中劇の二重構造になっているとのことだった。
会場は相模原市にあるM音大のホールだった。大学の施設とはいってもなかなか立派で、収容人数は800人もあった。
ホールの中へ入った。
コロナ禍にあって入場者の制限をしているようだが、それでも座席は六割ほど埋まっている。卒業公演ということで家族や友達などの関係者が多いとみえる。観客の間から、なんとなく和気あいあいとした感じが伝わってくる。これなら肩肘張らずに観られそうだ。
前の数列は座席を取り払って臨時のオーケストラボックスになっていた。オーケストラは少人数で、ピアノ、ヴァイオリン、ドラム、キーボードなど十人ほどの編成だった。卒業公演だからオーケストラには予算を掛けられないのだろう。
パンフレットも一枚刷りで、簡単なストーリーと登場人物、出演者が書かれているだけだ。
小夜子さんはパンフレットを読んだ。
オペラ【ナクソス島のアリアドネ】
・1916年 リヒャルト・シュトラウス作曲
・ドイツ語上演
・上演時間 プロローグ45分、オペラ本編75分
【ストーリー】
・(第一幕)プロローグ。時代は18世紀、ウィーンの資産家のお屋敷で盛大なパーティーが開かれ、オペラ「ナクソス島のアリアドネ」が上演されることになる。ところが、お屋敷の主人が直前になって無理な注文を言い出したので大騒ぎになる。
・(第二幕)オペラ本編。プロローグに登場する作曲家の作曲した『ナクソス島のアリアドネ』が上演される。
登場人物
作曲家 ナクソス島のアリアドネの作曲者(メゾソプラノ)
音楽教師 作曲家の教師(茶色の上着)
プリマドンナ アリアドネ役のソプラノ歌手
バッカス役のテノール歌手
オペラに出演する三人の妖精 泉の精、樹の精、響(木霊)の精
屋敷の執事長(黒のスーツ)
召使い(舞台スタッフ)、士官(タキシードの男性)、カツラ職人
ツルビネッタ 喜劇の女優
振付師 喜劇の振付師
喜劇に出演するハレルキン、スカラムッチョなど四人
舞台スタッフ、芸人たち
オペラ、ナクソス島のアリアドネは、プロローグと本編からできている。第一幕のプロローグでは、オペラが上演されるまでの経緯が描かれ、第二幕で、そのオペラが上演される。プロローグ部分もオペラ作品なので、つまり、オペラの中にオペラが嵌め込まれているわけだ。いわゆる、劇中劇の二重構造である。
映里さんの役どころは劇場スタッフの一人だと聞いていた。歌わないし、セリフもないとのことだった。
しばらくすると、場内にアナウンスが流れた。
『お客様にお願いです。携帯電話は電源をお切りになってください。プロローグの後に15分休憩時間があります。オペラはドイツ語で演じられ、舞台脇の壁面に日本語のテロップが投影されます・・・』
歌手はドイツ語で歌い、日本語訳が映画の字幕のように映し出される。これならドイツ語が理解できなくても安心である。
さて、予鈴が鳴って、いよいよ開幕となった。
指揮者が登場して一礼し、音楽が始まった。
幕が開いた。
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