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【2】
『ナクソス島のアリアドネ』プロローグ(抄訳)
舞台の幕が開いた。ウィーンのお金持ちのお屋敷、その屋敷内にある楽屋という設定である。舞台左手に階段が、左右にドアが二つあり、中央にソファ置かれているだけの簡単なセットだ。18世紀の雰囲気はなく現代的な感じがする。
劇場スタッフらしき人が荷物を運んだり、脚立に上ってなにやら仕事をしている。脚立を支えているのが映里さんだった。いきなりオープニングからの登場だ。
音楽のテンポが速くなった。
黒いスーツを着た屋敷の執事の男性が現れた。執事はスマホで通話している。誰かに指示を出しているといった様子だ。そこへ茶色の上着を着た音楽教師の男性が登場してきて、執事長を呼び止めた。
音楽教師 「執事長殿、あなたを探しておりました」
執事長 「何かご用ですかな」
執事長はスマホをポケットに入れ、腕時計を見て時間を気にする。
執事長 「今夜の準備で忙しいので手短にお願いします」
音楽教師 「一言だけです。今夜、弟子の作曲した、ナクソス島のアリアドネが上演された後に、滑稽な劇が演じられると聞いたのですが、本当でしょうか」
執事長 「いかにもその通りです」
音楽教師 「そんな無茶苦茶な。ナクソス島のアリアドネは神話を元にした正統派のオペラ、悲劇のオペラですぞ。お笑いと言いますか、喜劇というか、そのようなものと一緒にされては困ります」
執事長 「それはお屋敷のご主人様の決めたことでして、それとも、報酬のことで何かご不満でもありますかな。契約した謝礼の上に、幾ばくかの心付けをお渡しするつもりですが」
音楽教師 「お金のことを申し上げているんではなく、上演の仕方が問題なのです。後から演じられるものがコメディでは、せっかくのオペラが台無しです」
執事長 「パーティーの後で、どのような出し物が演じられようと、それはひとえにご主人様のお決めになることです。オペラが最初で、次に喜劇芝居があり、九時から花火が打ち上がることになっております。では、何分よろしく」
執事長は忙しそうに去る。
音楽教師 「弟子に何と言って説明したらいいのか」
なんと無理な注文をつけるのかと小夜子さんは思った。当日になってオペラの後から喜劇を上演するとは、幾らお金持ちのパトロンとはいえ、芸術への理解が欠けている。しかも、オペラの関係者である音楽教師はたったいま知ったのだ。
音楽教師はオペラらしく歌い上げたり、セリフに抑揚が付いているが、執事長は歌わずにセリフを普通に語っている。それもかなりの早口である。次から次へとセリフや歌が飛び交い、登場人物が思い入れを込める間がない。
原作ではオペラの時代設定は18世紀ということだが、この舞台は現代風だ。執事長は黒の三つ揃いのスーツを、音楽教師は茶色の上着を着ている。スマホも持っているので現代劇である。セットや衣装を現代風にアレンジしていても特に違和感はなかった。名作は時代を越えて相通じるところがあるものだ。
舞台上ではスタッフが花束や衣装を運び準備に余念がない。
そこへタキシードの男性が現れ、舞台スタッフに案内されて喜劇の女優ツルビネッタの楽屋に入った。スタッフはドアの前で見張り番をさせられた。
今度は階段から若い『男性』が勢いよく降りてきた。小脇に楽譜の束を抱えているから作曲家だ。彼は舞台スタッフを見つける。
作曲家 「君、すまないが、ヴァイオリンを呼んでくれないか。最終的なリハーサルをしたいんだ」
スタッフ 「ヴァイオリンは来られません、足がありませんからな」
作曲家 「私がヴァイオリンと言ったら、演奏者のことですよ」
スタッフ 「それなら、食堂におりました」
作曲家 「食堂! もうすぐ開演だというのに、のんびり食事とは」
スタッフ 「いえ、私が食堂と言えば、お客様方の席でして。つまり、招待客の前で演奏しているわけです」
作曲家 「わかった、では、アリアドネ役のプリマドンナと練習しよう」
作曲家が間違ってツルビネッタの楽屋に入ろうとするのを召使いが慌てて遮る。
スタッフ 「そこはオペラ歌手の部屋ではありません。中を覗き込まないように」
舞台スタッフは別のスタッフをドアの前に座らせると、薄笑いを浮かべて立ち去った。作曲家は憤懣やるかたないといった表情をみせる。
作曲家 「開演までにすることがたくさんあるというのに・・・そうだ、いいメロディーが浮かんだぞ。バッカス役のテノール歌手に教えなきゃ」
作曲家がメロディーを口ずさんでいると、楽屋からテノール歌手が出てくる。怒った様子で手にしたカツラをカツラ職人に投げつける。
テノール歌手「こんなカツラが被れるか」
カツラ職人 「あなたの気性の激しいことは存じ上げております。私は仕事をきちんとやっているだけです」
作曲家はカツラ職人を呼び止める。
作曲家 「すみません、何か紙をお持ちではないでしょうか、いま浮かんだメロディーを書き留めたいんです」
カツラ職人 「ありません」
作曲家には取り合わず楽屋へ入る。
小夜子さんは驚いた。作曲家は男性だと思ったのに、女性の歌手が演じている。よく見れば、髪はポニーテールだし、スーツのズボンはパンタロンだ。クラシック音楽の作曲家といえば、モーツァルトもヴェートーベンもみな男性である。だが、作曲家が男性だけとは限らない、女性の作曲家がいてもいい。むしろ女性の方がこのオペラの雰囲気にピッタリしている。
この作曲家は、これから自作のオペラを上演するので、焦る気持ちは理解できるが、少し気が逸り過ぎて周囲の状況が目に入らないようである。
作曲家の「ヴァイオリンのリハーサル」という歌詞に合わせて、オーケストラのヴァイオリンが、いかにも調子を整えているような、ギギーッという音を出した。オペラに慣れてきたので微妙な音が聴き取れた。
ドアの前に座ってツルビネッタの楽屋の見張りをしているのは映里さんだった。セリフはないが目立つ役だ。
今度は楽屋からツルビネッタがタキシードの男と腕を組んで現れた。ツルビネッタはワンピースに着物を羽織っている。
ツルビネッタ「私たち、オペラの後でお芝居に出るのよ。お客さんを笑わせるの、うまくできるかしら」
ピンクのシャツを着た振付師が言う。
振付師 「オペラなんて長ったらしくて退屈なだけです。この僕が、少々アイデアを出せば簡単に笑わせられますよ」
作曲家は突然現れたツルビネッタに見惚れて呆然としている。
作曲家 「先生、彼女は誰ですか」
音楽教師 「ツルビネッタだ。今夜オペラの後で上演される喜劇の女優だよ、四人の男を相手に踊ったり歌ったりするらしい。それとも、彼女が気に入ったかね」
作曲家 「なんですって、私のオペラの後で芝居がある! それも歌や踊りだなんて、そんなことは聞いてない。先生はこのことをご存じだったのですか」
音楽教師 「さっき聞いたばかりだ。いいかね、よく聞き給え、私はこの世を渡る処世術も身につけている。今夜の催し物の報酬で当面の暮しには困らないんだよ」
作曲家 「ああ、酷い話だ。こんなことでは、さっき浮かんだメロディーが消えてしまう。急いで五線譜に書かなきゃ」
そこへ、四人の男性が入ってきた。喜劇に出るハレルキンたちが到着したようだ。四人ともアロハ姿で、キャリーバッグや大きなカバンを持っている。ツルビネッタが駆け寄ってハグしたり、ハイタッチしている。スマホで記念写真を撮っている。
ツルビネッタは男たちに言う。
ツルビネッタ「メイク道具を持ってきて、口紅、マスカラもね」
楽屋からオペラのプリマドンナが堂々とした姿を見せる。
プリマドンナ「伯爵様を呼んで頂戴・・・」
と言いかけて、喜劇に出る役者を見て目を剥く。
プリマドンナ「この人たちは誰なの、オペラの出演者じゃないわね。こんな人と一緒くたにされてはかなわないわ。早く伯爵様を呼んでください」
ツルビネッタが両手を広げ大げさに嘆いてみせる。
ツルビネッタ「私たちの芝居を先にやらせてくれたらいいのに。オペラは退屈なんでしょ、その後で出て行って笑わせるのは大変なんだから」
それを受けて振付師は自慢げに歌う。
振付師 「そうでもありませんよ。お客さんは食事の後で眠くなっている。オペラを観てもお義理で手を叩くだけ。次は何だろうと、プログラムを捲る。そこにあるのは、『浮気なツルビネッタと四人の男たち』。ストーリーは簡単、楽しい音楽で歌あり踊あり。これは面白いと笑い転げて拍手喝采。帰りの車の中ではオペラのことなんか忘れ、覚えているのはツルビネッタの踊りだけですよ」
プリマドンナは目を回す。これには音楽教師も黙ってはいられない。
音楽教師 「いいですか、今夜のお客さんはオペラのアリアを聴くために集まっているんです。アリアドネ役のあなたこそ主役ですぞ。あなたの歌声で、他には何があったのか忘れてしまいます」
ツルビネッタ、振付師、音楽教師がお互いに自慢し合う場面では軽快なメロディーが連続し、歌手の歌もノリがよく、演技もコミカルだ。アロハシャツのハレルキンたち四人は、振付師の歌に合わせ、身振り手振りで喜劇が面白いことをアピールしていた。
プリマドンナ役の歌手は緑色のロングドレスを着ていた。出演者の中では一番オペラらしい衣装だ。プリマドンナの背後には、メイド風の衣装の三人が付き添っていて、これはプログラムにあった、泉と樹と響の精だろう。
そこへ、お屋敷の執事一行がやってきた。執事長はスマホで話している。盛んに頷いているところをみると、通話相手から何やら言い含められているようだ。
執事長 「みなさんにお知らせがございます」
スマホを切ってそこにいる出演者たちを見渡した。
執事長 「ご主人様は急遽、予定を変更せよとおっしゃいました」
音楽教師 「この期に及んで、予定変更とはどういうことですか」
振付師 「では、ツルビネッタが先になったのですか」
音楽教師 「いや、オペラが最初でしょう」
執事長が今夜の出し物の予定を変更すると言ったので、オペラと喜劇の出演者たちは何事かと心配そうな面持ちで集まっている。
執事長 「オペラと喜劇はどちらが先でも後でもありません。ナクソス島のアリアドネと、浮気なツルビネッタの芝居を同時に上演していただきたいのです」
音楽教師 「悲劇と喜劇を同時にですって」
一同 「オペラと芝居を一緒になんて」「それは無理だ」「急いで準備しなくちゃ」
執事長 「ご主人様はみなさんの技量を買っておられる、二つの出し物の音楽と出演者を使って、一緒にまとめて上演していただきたいのです。花火が始まる九時までに終らせるようにとのご命令です」
執事は帰ろうとして立ち止まる。
執事長 「ご主人様はこのお屋敷に、オペラの舞台である絶海の孤島のセットが組まれていることに少々ご不快なのですよ。その寂しい舞台を喜劇で盛大に盛り上げていただきたい。では、よろしく。開演までには時間がありませんぞ」
執事長はそう言い残して立ち去る。
こういう展開になるとは・・・小夜子さんは思わず身を乗り出した。
オペラの後に喜劇を上演せよというだけでも無理な注文なのに、ますます無理難題を押し付けてきた。今度は悲劇のオペラと滑稽な喜劇を同時に演じろというのだ。お屋敷のご主人様は、メロドラマの最中にお笑いコントを挿入しろと言っているようなものだ。
悲劇と喜劇を同時に上演しなさいと言われ、作曲家たちはどうやってこの難題を解決するのだろう。
執事一行が登場するシーンで、オーケストラが、ダン、ダダン、ダ、ダーンといったメロディーを演奏した。これが映画の効果音のようになっていた。
ここまでは歌い上げるというより、出演者はセリフに抑揚を付けて歌うように語っている。それも、相手のセリフを受けて思い入れを込めるのではなく、矢継ぎ早のセリフの応酬だ。
振付師が、意気消沈している作曲家を慰める。
振付師 「ご主人様の言うのももっともだ。荒れ果てた島など面白みがありません」
作曲家 「ナクソス島のアリアドネ、彼女は人間の孤独の象徴なんです。舞台は絶海の孤島、周囲は海に囲まれ、岩や木々が見えるだけ。そこに人間が登場してはいけません」
音楽教師と振付師は片隅でひそひそ話を始める。
音楽教師 「せめて二時間あれば、何とか修正できるんだが」
振付師 「簡単ですよ。オペラは長すぎるので大胆にカットしてください、そこへツルビネッタ一座がうまいこと入り込みます」
音楽教師 「静かに。カットするなんてことになったら作曲が嘆いて、死を選んでしまうかもしれない」
振付師 「本人に尋ねましょう、少々カットしてもオペラを上演させるか、それともお蔵入りさせてしまうか、どちらを選ぶのかと」
振付師が作曲家に歩み寄る。
振付師 「偉大な作曲家でも、初演のときは大変な苦労があったのですよ。さあ、赤インクと五線譜を用意して、すぐにオペラを手直ししてください」
作曲家は諭されてソファに座って楽譜を書き直す。
そこへ、テノール歌手がやってきて作曲家に言う。
テノール歌手「プリマドンナが歌うアリアをバッサリ削ってくれないか」
プリマドンナは音楽教師に言う。
プリマドンナ「テノール歌手の歌を半分にカットしてもらいたいわ」
音楽教師 「いいですとも、あなたのアリアは元のままにします」
音楽教師はプリマドンナにそう約束しておいて、次にテノール歌手に近寄る。
音楽教師 「ソプラノのアリアは半分になります。でも、黙っていてくださいね」
作曲家はオペラを少しカットすることに同意したのである。その傍らで、プリマドンナとテノール歌手がお互いに相手の歌を減らせと言い争うのが面白い。作曲家はどうやって双方が納得するように手直しするのだろう。幕が開いてからずっとゴタゴタの連続である。そのうえ、短くなったオペラの間に喜劇が割り込んでくるのだから、後半のオペラ本編はいったいどうなることやら。
作曲家はペンを置いてソファに座る。
作曲家 「アリアドネはテセウスと駆け落ちした。だが、絶海の孤島、ナクソス島に置き去りにされる。彼女は彼を恋い慕い、そして死を願っている」
ツルビネッタ「死を願うって言いながら、新しい男が現れるのを待っているのよ」
作曲家 「違う、アリアドネは生涯に一人の男性にしか思いを寄せないんだ」
ツルビネッタ「その反対のことが起きるのよ。もしかしたら、あなたみたいな青白い顔の男かもね」
作曲家 「彼女の元にはバッカスがやってくる。それは死の国へ誘う船のようだ。彼女は死を選ぶのです」
ツルビネッタは喜劇に出演するハレルキンたちに呼びかける。
ツルビネッタ「いいこと、ストーリーを話すわ。アリアドネは王女様なの。でも、恋人に捨てられ、次の恋人はまだ現れない。舞台は絶海の孤島。私たちは偶然ここに流れ着いたっていうわけ。私が合図したらオペラの舞台に飛び込んできて陽気に騒いでね」
ハレルキンたちはツルビネッタの話に頷いている。
作曲家はますます暗い表情になり、ツルビネッタが心配そうにのぞき込む。
作曲家 「アリアドネは自らを死に委ねる、もはや存在しないのだ。私だって生きてはいられないだろう」
ツルビネッタ「生きていられるかですって、あなたはもっと多くのことを体験するのよ」
作曲家 「こんな瞬間に、何を言うんですか」
ツルビネッタ「瞬間は何も言わないけれど、眼差しは多くを語る。私は舞台の上では浮気な女を演じている。けれど、それは演技だけ。本当の私は寂しがり屋、変わらぬ愛を捧げてくれる人に憧れているの」
作曲家 「あなたが憧れている人が誰であろうと、私はあなたと一緒になりたい」
ツルビネッタ「もう、行かないと・・・この瞬間をあなたは忘れ去ってしまうかしら」
作曲家 「未来永劫、この瞬間を忘れない」
作曲家とツルビネッタが手を取り合う。キスをしようというタイミングで開幕のベルが鳴り、二人は離れる。
音楽教師 「さあ、みなさん、準備はいいですか。ステージへ急いで」
作曲家 「先生、私の考えはすっかり変わりました。勇気が湧いてきたんです。音楽とは何か、そう、音楽は偉大な芸術です。すべての芸術の中で最も神聖で・・・」
喜劇の出演者が作曲家の周囲を右へ左へと走り回る。
作曲家 「この人たちはいったい何なんだ。神聖な舞台を汚さないでくれ。オペラとコメディを、悲劇と喜劇を同時に上演するなんて許すべきではなかった。もう、これ以上、やっていられない」
作曲家は走り去る。
音楽が高調し、幕が下りる。
いったん下りた幕が上がり、出演者たちがカーテンコールに現れてお辞儀をした。
小夜子さんも拍手した。
オペラは初めてだったが、ストーリーは分かりやすいし、学生さんたちの熱演もあって、面白く観ることができた。時代設定を変えて現代劇にした演出も良かった。作曲家とツルビネッタの女性同士の抱擁はきれいで自然な感じだったと思った。
現代劇にしたことで、18世紀の話が身近な出来事のように感じられた。ショウ・マスト・ゴー・オンの世界にも似ている。
幕がスルスルと下りてきて、これでプロローグが終わった、と思ったのだが、幕は中ほどで止まった。作曲家が姿を見せ、舞台左手のパイプ椅子に座った。作曲家はこれから始まる自作のオペラ本編を見届けようとしているようである。
これはオペラを作曲したリヒャルト・シュトラウスが指定した設定なのか、それとも今回の公演で学生たちが考えた演出なのだろうか。いづれにしても、なおさら劇中劇であることが強調されてきた。
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