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【4】
『ナクソス島のアリアドネ』オペラ本編(翻案)
S県の日本海に面した静かな町。町の人口は二千人にも満たない。最寄りのコンビニまでは車で30分もかかるし、金融機関はさらに遠くだ。誇れるような産業もない。地元の人の中には、この町は陸の孤島ならぬ『絶海の孤島、鳴き砂島』だと自嘲気味に言う者もいるほどだった。鳴き砂というのは、白い砂浜を歩くとキュッキュッと音がするからである。砂に石英が多く含まれる、いわゆる、鳴き砂海岸だ。
鳴き砂海岸の近くに町営の『道の駅』があった。ここが町内唯一の観光施設だ。テラス席もあってリゾート感覚が楽しめる。と言えば聞こえはいいが、その実、ヨシズ張りの鄙びたお休み処である。工事中とみえて、作業員が脚立に上って電気の配線を点検している。
七人ほどのお客がいた。これほど人数が多いのはかつてないことだ。
入り口に近い席の四人は若い男性で、派手なアロハシャツを着ている。四人ともこの町の人間ではないようだ。
残りのお客は女性だった。メイドが注文を取ったときに関西訛りがなかったところをみると東京からの観光客らしい。
三人のメイドが皿やコップを片付け、テーブルを拭いていた。泉、樹、響、彼女たちは可愛くて妖精みたいだ。三人は窓の外を眺めている女性を見て代わる代わる言った。
「眠っているのかしら」
「泣いているようだわ」
「昨日もそうだった」
「さっきからずっとあのままよ」
「いつまでああしているの?」
「私たちは慣れっこになってしまった」
窓際に座っているその女性は三十代後半に見えた。彼女は昨日も一昨日も、いや、その前の日も来ていた。三人のメイドは、女優がお忍びで旅行しているのではないかと陰で話している。ときどき、嘆いたりするが、ほとんどの時間は眠っているかのようにじっとして動かないので、絶対、破局したんだろうという見立てだ。
もう一人は窓際の女性よりはやや若く、奥の席で盛んにスマホを見ている。この女性が町の外れの傾いたビルに出入りしているのが目撃され、町役場の防犯課がパトロールを強化したという噂だった。そのビルには、主が倒れて廃業寸前の探偵事務所があるだけだ。その怪しげな女性は、どう見ても探偵とは思えないから警戒した方がいいとのことだった。
あとの一人は姿が見えない・・・浜辺にでも出ているのだろうか。
年上の女性が、もう一人を手招きした。指された方はスマホを持ったまま、私ですかと自分の顔を指差した。
「あなたしかいないじゃない」
仕方ないといった様子でのろのろと席を移動してきた。
「お酒飲みたい気分なの、一緒に飲みましょうよ」
お酒を注文した。メイドが持ってきたのは地元の『鳴き砂ビール』だった。ノンアルコールビールだ。
「鳴き砂ビールだなんて、飲んだらますます泣きたくなるわね」
「「乾杯」」
「あなた、どこから来たの」
「横浜です」
「いいところ」
「でも、西の外れで横浜とは名ばかりです」
「ここへは何をしにきたの」
「探偵事務所の留守番で来ました。これでも探偵なんです。だけど、依頼人は来ないし、暇なのでキャバクラのバイト探しているんです。ここにはキャバクラが一軒もないんですね」
「探偵か・・・あなたが探偵なら、私は王女様でどうかしら」
「王女様ですね」
そこでまた乾杯した。
「ここへは何のご用で来たんですか、王女様」
「聞いてよ、男に捨てられたの。駆け落ちするはずだったんだけど、男に逃げられた。この町に置き去りにされたってわけ」
「王女様にも人知れぬ苦労があるんですね」
「そうよ、陸の孤島、鳴き砂の町、寂しいけど、ここ鳴き砂島は、今の私にふさわしいかもしれない」
王女様は、酔ったみたいと言って、テラスの階段から砂浜へと下りた。『鳴き砂ビール』はノンアルコールだからいくら飲んでも酔うはずはないのだが・・・
「ああ、男性では苦労ばっかりさせられる。男に捨てられた私は、生きているように見えるけど、死んだと同じことね。こんな悲しくては生きているとは言わない。自分の影が揺れているだけよ。彼と過ごした明るくて楽しい時間はもう戻らない。だから、鳥も通わぬ鳴き砂島で一人横たえて死を待つだけ。それしかないんだわ」
王女様はデッキチェアに座った。
アロハシャツの男が一人、自称探偵の女性に近づいた。
「鶴姫」
「誰よ、あなた」
「ハレル・・・と書いて、晴夫。そっちは、ツル・・・鶴姫さん」
「知らないわ、鶴姫なんて。でも、面白そうじゃない、鶴姫でいいわ」
「楽しくやろうぜ、鶴姫。ドライブでも行こう、あの三人も仲間なんだ」
「ドライブ? その前に、あの人を」
と、王女様を指差した。
「王女様なんだって、悲しんでいるみたいだから、歌でも歌って喜ばせてあげなさいよ」
「まかせとけ」
晴夫は忍び足で王女様に歩み寄った。
「愛も歓びも、悲しみさえも生きていればこそ。死んでしまっては元も子もない。美しい王女様とやら、死ぬのは後回しにして、楽しくやりましょう」
王女様は晴夫が歌ってもピクリとも動かない。
「ダメだったじゃないの」
「ゼンゼン振り向いてくれなかった」
「あなたはそうやってナンパしてるのね」
「そういう鶴姫だって、どんな男にも付いて行くだろうに」
「失礼ね」
王女様はそれを気に止める様子も見せず、海に向かって歌うように話しかける。
「すべてのものが清らかな世界がある。それは、死の国。
やがて、死の国から一人の美しい使者がやってくる。使者は私の目の前で止まり、手を差し伸べる。私は薄絹だけを身に纏い彼に従うの。
彼はこの煩わしい世界から救いだし、死の国へと誘ってくれる。この身体は失われ、闇が私を包むとき、私は使者の船に乗る。
死の国、そこには安らかな平安が待っている。死が、死が私を待っている」
アロハ姿の男たちが王女様を取り囲み、我先にと手を差し伸べた。
「王女様、悲しみや苦痛はいつかは癒えるもの」
「どんな悪いことが起こっても、跡形もなく消え去ります」
「あなたを陽気にさせるため」
「この四人がやって来たんです」
そのうちに王女様の周りを踊り始めた。
「王女様、『可愛くてごめん』踊りましょう」
「ペンライトを持ってます。サイリウムは何色?」
「それとも『君の彼女』とか『ファンサ』がいいですか」
「ヲタ芸、得意なんです、コールで盛り上げますよ」
ペンライトをクルクルと振り回した。
それでも王女様は微動だにしない。
「歌っても踊っても効き目がないみたいね、さあ、あなたたちは向こうへ行きなさい」
鶴姫が手を振って男たちを遠ざけた。
それから王女様の隣に座った。
「偉大な王女様。
あなたのような高貴な方の悩みは私たちとは違うのね。でもね、私たちは女性同士、心を打ち明けてみませんか。女の弱さを語り、心のモヤモヤを話せばスッキリしますよ。
ああ、王女様はちっとも聞いてくれない。銅像みたい、動かない岩のよう。
聞いてください王女様。男のことで悩まない女なんてこの世にはいないのよ。こっちが本気でも、男に逃げられ、捨てられ、絶望するばっかり。私は何度も、絶海の孤島、鳴き砂島みたいに落ち込んだことがあるわ。
男って酷いわ。すぐに気が変わるんだから。でも、だからって、男を恨むようなことはしない。私だって、真剣に愛するし、ときには浮気心に駆られることもある。男に裏切られたり、こっちが裏切ったりの連続ね。
外資系証券会社の男と付き合ってみたり、流行りのユーチューバーに惚れてみたり、そうそう、イケメンのホストに貢いだこともあったっけ。黒歴史はいっぱい。あっちの男、こっちの男、二股交際なんて当たり前。
もう男なんて懲り懲りと思っても、そこへ新しい男が現れるでしょ。私は相手の男次第でコロコロ変わる。新しいカレシにキスされただけで心を奪われるわ。
恋をしたら、女は無口になり、黙ってしまうのよ、黙って・・・」
鶴姫が情感たっぷりに、また、あるときはコケティッシュに語り終えると、四人の男たち、それに三人のウエイトレスが拍手した。観客総立ちとはこのことだ。
その輪の中から、晴夫が鶴姫に駆け寄った。
「さすがは鶴姫、見事だったよ」
「王女様だって、新しい男性とめぐり逢えば私と同じような気分になるでしょう」
「待っていれば男は来るのかね」
「来るわよ、女はそれを望んでるの」
「僕は待てないなあ」
晴夫が鶴姫に抱きついた。
「あんたも懲りないわね」
アロハシャツの四人が鶴姫を取り巻いた。
「僕の車で鳴き砂島を案内しよう」
「いっそ二人きりになりたいんだ」
鶴姫が椅子に座ると一人の男が赤いハイヒールを脱がした。
「ああ、なんという美しい脚だ」
鶴姫は別の男にも視線を送る。
「ああ、その瞳がたまらない」
「いい男ばっかり。ホント、男ってヤツは、誰も私を放っておかないのね。女だって、男に振られても新しいカレシを見つければいいのよ」
鶴姫が逃げようとするのを晴夫が追いかけた。
残った三人の男はメイドたちに言い寄っている。
「ヘイ、こっちは三人組だ。そっちも三人だからぴったんこ。三人組といえば・・・」
「もしかして、たのきんトリオですか」
「何だ、ずいぶん古いな、ここは昭和かよ。それなら、あんたらはキャンディーズか」
「私たち、天地真理、小柳ルミ子、南沙織でーす」
「せめて、松田聖子、小泉今日子、中森明菜にしておけ」
「もっと新しいのも知ってるわ」
「「「かしまし娘。女三人寄ったら、かしましいとは愉快だね」」」
「ちっとも愉快じゃない。ゼンゼン新しくないし、よけい古いや」
「あなたたち、レッツゴー三匹やってよ」
「「「じゅんでーす、長作でーす、三波春夫でございます」」」
「ノリがいいのね、次は横山ホットブラザース、玉川カルテットとか、てんぷくトリオでもいいよ」
「ええ加減にせえ」
「もう、やってられんわ」
「失礼いたしました」
漫才が終わると今度はみんなで踊りだした。メイドたちが、キャンディーズの「春一番」や「年下の男の子」を歌って踊れば、アロハシャツの男たちが、「サイコー、サイコー、鳴き砂、サイコー」と、コールで声援を送った。
三人組同士で盛り上がっている間に、晴夫と鶴姫は示し合わせて手を取り合い、こっそりその場を後にしようとした。
「鶴姫、待って」
三人の男たちもその後を追って駆けだした。
「緊急メールだわ」
メイドの一人、響がスマホを手に取った。
「メールを読むわね・・・【沖合に停泊中の大型ヨットにいます。そちらに向いたい】」
「誰が来るのかしら」
「若い男性よ、バッカスという名前だって」
「バッカスだなんて、酒飲みだわね、きっと」
「ゼッタイ、いい男に決まってる」
「メールの続きよ・・・【美魔女のキルケーから逃げてきた】ですって」
「あらら、心配。美魔女の毒を飲まされているかも」
「沖を見て、ヨットではなくって、サーフィンだわ。波に乗ってる」
「カッコイイ」
「上陸するわ」
バッカスが海岸にたどり着いた。サーフボードを下り、素早くアロハシャツに着替えた。テラス席の方へ歩いてきたが、砂浜がキュッキュッと音がするのでびっくりしている。
「歩くと音がするんだな、この砂浜は」
眠っていた王女様が起き上がった。
「あなたは・・・誰」
「バッカス」
「元カレ・・・じゃなかったのね」
「美魔女のキルケーから逃げてきたんだ。危うく毒杯を飲まされそうになった。もし、毒を飲んでいたら、美魔女の奴隷にされただろう。寸でのところを逃げ出して、この島に着いたというわけさ・・・ここは?」
「鳴き砂島よ」
「鳴き砂島・・・すると、あなたはこの島の女神様ですか」
「私は王女よ」
「美しい・・・王女様ということは、このヨシズ張りの小屋はあなたの宮殿だな」
「私はあなたが来るのをずっと待っていた。私を死の国へ連れて行って」
「死の国ですって! あなたも美魔女の仲間で、毒の混じった酒を飲まそうとしているんですか」
「・・・何を言ってるのか分からないわ。これはこの町の名物『鳴き砂ビール』」
バッカスという名の男はビールのラベルを見ている。
「ノンアルコールだね、アルコール度数はゼロだし、これなら酔わない。もちろん毒も入ってないようだ」
二人は『鳴き砂ビール』で乾杯した。
「私はここであなたが来るのを待っていたんです。悲しくて、毎日、毎日、泣いて待っていました。この世に思い残すことはありません。船で来たんでしょう。船に乗せてください、あなたの船に、死の国行きの船に」
「王女様・・・それほどまでに死にたいと願うのなら・・・この胸に飛び込みなさい。でも、あなたは死ぬことはない」
王女様がバッカスの胸に顔を埋めた。
「あなたが死ぬ前に空の星が死ぬことでしょう」
「なんとロマンティックなことを言うの・・・ああ、もう引き返すことはできないわ。ここが死の国? いいえ、私は生きている。死んでなんかいない」
「そうです。あなたは生きている、王女様」
「あなたに出会って、元カレに捨てられた苦しみも悲しみも、今はどこかへ飛んでいってしまった。新しい光りと希望が見えてきました。何もかも変わったわ、どうしてこうなったのかしら」
「それでいい。苦痛は快楽に、悲しみは喜びに変わった。そして、これから二人の新しい生活が始まるんです」
「ずっとあなたと抱き合っていたいわ」
二人は手を取り合って歩いて行った。
男性に捨てられて死を望んでいた王女様が鳴き砂島で新しい恋人と出逢った。
自称探偵の鶴姫は戻って来てその一部始終を見ていた。
「そう、これでいいのよ、万事めでたしだわ・・・?」
鶴姫が立ち去ろうとしたとき、浜辺のパイプ椅子に若い『男性』が座っているのが見えた。
後から到着したバッカスを別にすると、ここには客は六人しかいないと思っていたが七人目の客がいたのだった。まったく気が付かなかった。
初めからずっと見ていたのだろうか。
よく見ると、髪はポニーテールだし、スーツのズボンはパンタロンだ。男性だと思ったのだが女性だった。
彼女はハッピーエンドを見届けて何度も頷き、椅子から立ち上がった。
番外編・くわしい探偵社 終わり
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