津城と邦弘

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「…お前を下に置いてどれくらいかねぇ」 「まだ、制服を着たガキでした。もう随分になります」 それで、と邦弘の目が細くなった。 「お前…俺に言う事があるだろう?」 のんびりとした物言いの中に、ズシンと重いものがわかって、香乃はこくんと喉を上下させて息を詰めた。 津城が緊張するのは、邦弘のこう言う一面を分かっているからなのだろうと、理解できた。 す、と津城が拳を握り畳について頭を下げた。 「右も左も分からねぇガキを、ここまで育てていただき…」 ぐっと声色を深くした津城が、邦弘にこれまでを感謝する言葉を口にした所で、それより低い声がその上から押し込んだ。 「俺は…部下のお前に聞いてんじゃねぇぞ」 津城と結婚出来ないならと駄々をこねるつもりでいた香乃が、ピクリとも動けずにいた。 頭を下げたまま、口を閉じた津城と。 微笑みを消さないまま、じっとそれを見ている邦弘の雰囲気は重く。 知らない雰囲気は香乃の肌に重くのしかかっていた。 津城が拳を開いた。 その手を前につき直して、更に深く頭を下げた。 「お孫さんに、プロポーズを受けて貰いました。…命をかけて護ります。結婚をお許し下さい」 貼り付けた様な邦弘の微笑が解けた。 そうか、と一言だけ。 いつもの、邦弘の微笑みが香乃に移る。 「…香乃ちゃん、これは扱いにくい男だぞ」 「…はい、でも秋人さんが好きです」 香乃の返事に、邦弘がうんと頷く。 「式には呼んでくれよ?」 「もちろんっ」 邦弘が背後に向かって声を上げた。 「おーい!熱燗つけてくれや」 襖一枚隔てたところではい、と返事が返ってきた。 「…秋人、もういいぞ頭上げろや」 頭を上げた津城に、邦弘がニヤリと笑う。 「俺は後悔した、千草を傍に置かなかったことを。…お前に組を任せたのは、俺に似てたからだが…俺より随分賢いなぁ、お前は」 「…いえ」 頼むぞ、と邦弘が津城の目を見た。 背後からでは津城の目は見えない。 けれど、しっかりと津城は答えた。 「はい、必ず」 熱燗と刺身で三人でささやかな祝杯をあげた。 邦弘は初めて香乃に会ったあの日にはもう、薄々特別な感情があるのだと気付いていたのだと言った。 反対する気も無かったと言う。 「惚れた女が、自分を好いてくれてるのに…手放す馬鹿はいねぇわなぁ」 邦弘と千草の時代は、今よりもっときな臭く危険だった。 千草を護りたいと思って取った邦弘の行動は、決して間違いではなかったのだと思う。 けれど、深い後悔と寂しさは大きかっただろう。 自分達と同じ苦しみを選ばせる気持ちは毛頭なかったのだ。 泊まって行くかという邦弘に礼を言い、新幹線の時間があるからと、津城と香乃は家を後にした。 和代の病院に見舞いをして、相変わらず目を閉じている彼女に結婚の報告をした。 温かな肌に触れて、やはり少しだけ泣いた香乃の手を引いて津城はタクシーに乗り込んだ。 「また、ゆっくり来よう」 「はい」 駅までの道を、手を繋いで過ごす。 家を出る前に邦弘に記入して貰った婚姻届。 「向こうについたら出しに行こう…」 「はい」 津城は帰りの新幹線でも、香乃の手を握っていた。 許しを得た安堵はその手から伝わっていたから、お互い何も話さなかった。 ただ、これから先もずっとこうして手を繋いで歩くのだとお互いが感じながら、流れる景色を眺めて過ごした。
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