津城の願望

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津城の願望

「…ちょっと寄り道しようか、香乃」 無事に婚姻届を提出し終わった役所の前で、タクシーを捕まえるのかと大通りを見ていた香乃に津城が言った。 「寄り道ですか?」 「うん」 津城は手を挙げてタクシーを止め、行先に前の事務所の近くを告げた。 晴れて津城の妻になった嬉しさ。 もしかしたら、あの事務所の組員に報告に行くのだろうか。 タクシーをおりて、香乃は津城の横に並んだ。 事務所の近くだけれど、このまま隣を歩いていいのだろうか。 津城は自分をなるべく隠していたいと、今も思っているのだろうか。 そんな風に思って、香乃は無意識に半歩後ろに下がった。 数歩進んだところで、津城の腕が腰を引き寄せた。 「…疲れた?」 見上げた顔は穏やかで、香乃はホッとして首を振る。 「いいえ…全然」 横に並んで歩き出すと、津城が例のカフェの下で足を止めた。 「上で珈琲飲んでて、すぐ行くから俺の分も一緒に」 財布を出して香乃の手に乗せると、香乃の背中を階段に促した。 津城は用事を済ませてくるつもりだった。 香乃は言われた通りに店に入って、珈琲を二つ注文してあの席に座った。 今回は一人じゃない。 隣の席にちゃんとバッグを置いて津城の席も確保した。 もう暗くなった下の道にはまだ人通りがある。 手を繋いだ高校生、電話しながら歩くビジネスマン。 何気ない人の流れすら楽しくなる。 大好きで、最初は相手にされないだろうと諦めていた人の、奥さんになれた。 これから、一番そばで彼を支える事を許された。 …夢みたいだ。 ぴょこっ! 効果音をつけるならそんな風に、視界に鶴橋が現れた。 「あ、鶴ちゃん」 思わず少し腰を浮かして下の道を覗いた。 鶴橋は、満面の笑顔でぶんぶんと腕をふっている。 相変わらずの大きな身体と、人懐こい笑顔に思わず香乃も笑顔になった。 小さく手を振り返したら、鶴橋が頭の上で大きなマルを描いた。 「ん?」 何だろうと思って首を傾げたら、腕が違う形を作った。 「んん??」 猿の、真似? また形を変えた腕と、今度は横を向いて足まで使った。 まるでダンスを踊るみたいに、同じ動きを繰り返している。 そのコミカルな動きに吹き出して、目で追っていたら気がついた。 「お…め…で…と…う…だっ」 アルファベットでおめでとうと、鶴橋は伝えていた。 「ふふっ」 わかったよの合図に、香乃は頭の上で大きなマルを返した。 身体の大きな鶴橋を避けて通り過ぎていく通行人。 ちょっと笑われている。 そんな事を気にもせずに、また鶴橋は大きく手を振った。
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