津城の願望

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じわり、と潤んだ香乃の目を見つめて津城が静かに言葉を重ねた。 「…だから、離れずに付いてきてくれるか」 あの背中越しの、手探りのプロポーズのやり直し。 今度は目を見て、津城は香乃の返事を待っている。 「はい、付いていきます」 ニッコリ笑った香乃と、多分照れている津城の微笑み。 香乃は残りの一つのリングを取り出して、津城の指にはめた。 「結婚記念日は、二人でコーヒーを飲みたいです」 「うん…コーヒーでいいのか?」 こうして、指輪を貰った時間を思い出して笑い合えたら、何も…豪華な食事も場所も要らない。 「はい、もしここが無くなっても…並んで座れるお店で二人でコーヒーを飲みたいです」 頷いた津城が、分かったと笑った。 「…毎年、俺が店を探す」 「え?」 「新しい店を、探す…香乃が喜びそうな景色が見える所に行こう」 香乃がはめたリングをした自分の手を、津城はじっと見つめた。 「毎年…そうやって店を増やして…景色が良い店が近場に見つからないくらい、一緒に居よう」 嬉しくて、香乃は喉を締め付けられて。 それでも笑って大きく頷く。 「はい、今日の景色は…鶴ちゃんのおめでとうですね?」 「……店変えて仕切り直すか?」 「うふふっ、えー、あれは結構レアですよ?」 決して高級でもない、淹れたてでもない安価なコーヒーの味はあの日より随分甘い気がした。 迎えを呼んだ津城と家に戻ると、広間には豪勢な料理が並んでいた。 朝決めたはずのメニューはひとつもなかった。 驚いたのは、お膳の前にきちんと座った組員が全員揃ってスーツ姿だった事だ。 矢田も座っていて、更にお膳は無いもののさっき踊っていた鶴橋まで座っていた。 「……え?」 広間の入口で固まった香乃。 津城は差程驚いた風もなく、その緊張感とはそぐわない仕草でネクタイを緩めながら。 「…ご苦労」 と一言だけ。 香乃の背中をそっと促して、津城は上座に腰を下ろした。 遅れて座った香乃を確認すると、矢田が姿勢を正して頭を下げた。 「親父、姐さん、この度はおめでとうございます」 「おめでとうございます!!」 後に続いた男達の声は野太く。 香乃は多分座布団から数ミリ浮いた。 津城と香乃のお膳には、赤い盃がそれぞれ置かれていた。 真面目な顔をした本城が、徳利を持って立ち上がった。 津城は盃を上げて、本城から酒を注がれそれを飲み干した。 「姐さん、どうぞ」 香乃も慌てて盃を上げた。 「香乃、舐めるだけでいい」 「はい」 日本酒は香乃にはきつ過ぎるけれど、少しだけ口をつけた。 うん、と頷いた津城がお膳に伏せられていた空のグラスを返して香乃に差し出した。 「ここへ」 「あ、はいっ」 香乃がそこへ移した酒を、津城が飲み干す。 そこから、その場に居る組員全員が順に酌をした。 二人目からは、津城は自分の盃を空けると香乃には口をつけさせる仕草だけで、グラスで香乃の分も飲み干してくれた。 最後は鶴橋の後に矢田。 ひと回り終えると、津城が口を開いた。 「籍を入れた、慣れねぇ事もあるが…手助けをしてやってくれ」 腹のそこからズシンとくる様な声で、組員が揃って返事を返した所で、津城がニヤリと笑った。 「無礼講だ、好きなだけ飲め」 それからは宴会で。 若手が一芸と、何故か空いた続きの広間でブレイクダンスを踊り、木田が野太い声で炭坑節を歌った。 姐さん、姐さんと組員が入れ替わり立ち代り隣に膝をついて、可愛らしいお菓子を持ってくる。 香乃の横に、あっという間に和と洋の茶菓子やケーキが溜まっていった。 皆笑顔で、笑い声が途切れずに続いて。 隣で津城が穏やかに酒を飲んでいる。 温かくて幸せだった。 やんややんやと、それはそれは賑やかな夜だった。
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