新生活

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廊下と中庭、手前の部屋の窓。 なるほど、囲まれている。 孤立したその部屋は安全だ。 「…では」 と組員は頭を下げ、渡り廊下から先には踏み入らなかった。 「ありがとうございます」 とん、と隠し扉のような襖を閉じれば津城と香乃、二人だけの空間が確保された。 「モズを、連れてこようか」 「はいっ、きっと秋人さんに会いたがってます」 津城は縁側の硝子障子を開けてから、部屋の襖を開けて香乃を部屋に入れた。 綺麗な畳のはられた和室には、趣味のいい座椅子と脇息のセット、後は灰皿。 二間ある襖は開け放たれていて、奥に着流しとスーツの掛けられたラックがあるだけだ。 この物の少ない部屋で、津城は一人で過ごして居たのか。 きゅ、と香乃の胸が締め付けられた。 「秋人さん、お茶…用意しますね」 「うん?…いいよ、ここにおいで」 津城は微笑んで座椅子に座ると、香乃に手を伸ばした。 春先の庭には、小さく作られた池と…ユキヤナギが咲いている。 津城の膝の間におさまって、ゆっくり胸に寄りかかる。 「誰か来ちゃいませんか?」 「んー?…そんな無粋な奴は居ない、多分」 「ふふ、多分?」 吹き出した香乃と、胸を揺らして笑う津城。 「ああ、多分」 香乃、と津城が名前を呼んで。 覗き込むようにして一度、香乃の唇を啄んだ。 「好きに過ごせばいい、料理でも、掃除でも……やりたいだけやって、手が足りなきゃ組員がいる」 多分、津城の妻としてそこそこの動きでじっとしている事を好まない香乃への、津城なりの心遣いだろう。 「はい」 「でも」 「はい?」 津城がゆったりと笑う。 「朝の味噌汁は、香乃が作ってくれ」 きゅんとして、もちろんと頷いた。 夕方、矢田がモズを連れて現れた。 「ご婚約おめでとうございます」 「やっくん久しぶり、ありがとう」 矢田はモズを離すと、津城に婚姻届を差し出した。 「ああ、お前書いたか」 「はい」 証人の欄は矢田がひとつ埋めてくれていた。 モズは甘えた様に数回鳴いて、もう津城の膝の上だ。 「ご入籍は、いつ頃?」 日の暮れる直前の淡い色の空の下、津城が縁側に座り香乃は後ろに控えている。 矢田は渡り廊下の終わりの端に背筋を伸ばして座った。 「ああ……香乃の親父さんにご挨拶をして…それから長野で親父に会ってからだな」 香乃の入れたお茶を美味そうに飲む津城は、指先でモズの眉間のあたりを撫ぜてやりながら、穏やかな顔をしている。 香乃はあの、と話しに割って入った。 「うん?」 津城はやはり、矢田が加わると少し雰囲気を変える。 つ、と香乃に流した視線は強く無いけど甘くもない。 「父には、報告しました。日本に戻ったら一度顔を見せてほしいって」 香乃は先程まで、荷物を取りに外に出ていた。 組員を家の外で待たせて、海外にいる父親に電話したのだ。 早くから離れて生活をしていた父親とは、仲が悪いわけではないけれど、やはり少し距離感は違う。 おめでとうと言う優しい声と、後悔の無いように生きなさいとそれだけで。 それからしばらく話をして、穏やかに通話は終わった。 「いや、俺の生業の説明もある」 「向かいのお家の方だと言ったら、そうかとそれだけで。多分分かっています」 「……」 「次に日本に戻るのがいつかも分からないですけど、その時で大丈夫です…娘をよろしくと伝えてくれって」 「……そう」 津城からすれば、父親があの家の役割に気付いていた所から、驚きだろう。 正直、香乃も驚いたのだ。 「矢田、新幹線のチケットを用意してくれ…最短日で、あとはお前に任せる」 「承知しました、ではまた」 矢田が津城への会釈と、香乃への微笑みを残して渡り廊下を進み襖を閉めた。 矢田の気配が消えると津城は香乃に向かって手を伸ばした。 香乃はその手を取って隣に座りなおす。 「……悪いね、俺が連絡するべきだった」 「いいえ、賛成してくれるのは分かってましたから」 「親父さん、知ってたのか」 「はい、母から聞いていたみたいです。おばぁちゃんから聞いたのか、気づいたのかは分かりませんけど…おじいちゃんの事も知ってたって」 津城は複雑な目の色で、ふ、と笑った。
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