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元彼も、クライアントも、もう5年以上関わっていない。――だとしたら。まさか。
「……だ、大丈夫ですか?顔色、悪いです……」
心配そうに、男性が葵の顔を覗き込んでくる。男性の腕を掴んだままの自分の手が、かたかたと震えているのを他人事のように見つめていた。
「よければ、ご自宅まで送ります……あっ、本当によければ、ですけど……」
遠慮がちに言う男性を、気丈に断ることは、今の葵にはできなかった。
声も出せずに頷き、男性を伴って家へと向かった。
葵の気持ちを紛らわすためか、男性は自分のことをあれこれ話した。
名前は店と同じ、桑原であること。
一昨年まではサラリーマンとして働いていたこと。
花に関する資格を、今片っ端から取ろうと勉強していること。
問われて、葵も質問に答えるうちに、いくらか気持ちが落ち着いてきた。そして、自宅前に帰りつく。
「家、ここです……すみません、結局家まで送っていただいて」
「いや、全然、近いので……――この家、前から、今どき珍しい、実のなる木が多いお宅だなぁって思ってました。ここ、だったんですね」
男性……桑原は、門の前で庭を見上げて言った。
玄関近くの広葉樹に目をやり、
「これはマルベリーですよね。――あっちは、グミ。あと、ユスラウメか」
たどたどしかった口調が、花のことになるとすらすらと出てきて思わず葵の表情も緩む。
「さすがですね。……戦後、少しでも食べるものが生ればって、先祖が植えたものだそうです。今は、野鳥がほとんど食べちゃいますけど」
「それはもったいないですね、マルベリーって、実だけじゃなく葉っぱも栄養があって、例えば……あっ。すみません、こんな夜中に外でする話じゃないですね」
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