それはきっと愛の告白

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 悪魔の言っていることは時々よくわからない。私にはとても思いつかないような突拍子もないことを突然口にするからだ。 「俺、天使様の名前が呼びたいなぁ」 「……名前?」 「そう。ずっと教えてくれないじゃん。悪魔に名前知られるの嫌? 俺が天使になったら教えてくれる?」  どう答えたものか、と悩んでいる間に悪魔はにこにこと笑いかけてくる。 「天使になるの、楽しみだなぁ」 「……そうですね」  悪魔らしくない無邪気な笑みを見せてくるから、私もつられて笑いそうになる。 「そういえば、俺の名前も呼んでくれないよね? 呼んでほしいなぁ。それも天使になるまでおあずけ?」 「……覚えてません」 「うっそじゃーん」  嘘でしょそこまで忘れっぽくないでしょ、と笑ってくる悪魔に返事をしないでいると「え、うそ、まじなの? まじで覚えてないの? 悲しすぎて鬼の目にも涙ならぬ悪魔の目にも涙なんだけど」とまくしたててくるので、今度こそ笑ってしまった。  多分私は楽しんでいた。悪魔との天使らしからぬ交流を。だけどそれは永遠に続くものではないということを私はよくわかっていなかったのだ。  何度も何度も善いことを続けた悪魔は次第に元気を失っていった。住処に帰る力もなく、いつ行っても岩場に寄りかかっている。それでも少し回復すると善いことをしているらしい。 「……もうやめたらどうですか」 「なんでそんなひどいこと言うのぉ。俺、こんなに頑張ってるのに。こんなに天使様と同じになりたいのに」  だからそれがわからない、と言う前に悪魔が血反吐を吐いてしまう。介抱したい気持ちはあるのだが、触れると余計辛い思いをさせてしまうので何もできない。  せめて風の当たらないところにと岩陰に誘導すると、悪魔は力無く笑った。 「天使様は優しいね」  弱った悪魔一匹助けられないで、何が優しいだ。私はここで待っているようにと悪魔に言いつけ、せめて水か何か持って来ようと飛び立った。  天国の泉から湧く水は数多の傷を癒すが果たして悪魔に効くのだろうかと悩んでいると、仲間の天使が声を掛けてきた。 「ねえ、あなた、天国から出て悪魔と関わっているというのは本当?」 「……禁止はされていないはずですが」 「それは神の使命を受ける際に悪魔と関わらなければならないことが稀にあるからでしょう? 日頃から関わっていいということではないはずよ。そもそも何故悪魔と関わるの? 脅されているの?」  そういうわけでは、と首を振りながら困ってしまう。こんなところで話している場合ではないのだ。 「……悪魔に、会いたいと言われるので」 「まあ、あなたまさか、堕天するつもり? 愚かなことはやめなさい。堕ちるというのはとても穢らわしいことで」 「わかってます。変わりたいのは私ではない。悪魔の方が天使になりたいと言って」  意味がわからないと言いたげに怪訝な顔をして「天使に?」と聞き返される。 「悪魔が天使になれるわけがないでしょう? 天使が堕天するのとはわけが違うのですよ。悪魔は堕ちてきた天使を面白がると聞きますが、天使は違います。神は一度でも穢れたものを天使として我が子に迎え入れようとはなさりませんから。覚えていないのですか? 生まれた時に神に教えられたでしょうに」  私はその言葉を聞いた瞬間に頭が真っ白になって、呼び止められるのも聞かず悪魔の元へと全速力で飛んだ。  悪魔は私の言いつけ通りにそこにいて、私を見るなり嬉しそうに顔を綻ばせた。 「ギャク!」  悪虐非道の虐だと、名乗ってくれた日がどれだけ前だったかも私は忘れてしまったけれど、名前はちゃんと覚えていた。だってひどく羨ましかったから。今日まで呼べなかったくらいに。 「ギャク、善いことをするのはやめなさい。そんなことをしても、あなたは……あなたは天使には、なれないのです」  焼かないように距離を取りながらも私は必死で訴える。きっと悪魔は知らないのだ、悪魔は天使にはなれないということを。だから教えてあげなければ。こんな無茶を今すぐやめさせなければ。  なのに少しも驚いていない様子で、穏やかに微笑みながら見上げられて私は息を呑んだ。 「天使様、やっと俺の名前呼んでくれた」 「っ、そんなことより、もうやめると言ってください。あなたは天使にはなれないのです。こんなこと続けていたら、あなたはきっと」 「うん、死んじゃうだろうね」  さらりと言われて私は言葉を発することができなくなる。なんで、どうして、天使になれないことを知っていたのに、こんなことを…… 「それでいいんだ。だって死ぬってことは、いつか生まれ変われるってことだから。でもね、俺は悪魔で、悪いこといっぱいしちゃったから、善いことをしないと……たくさん善いことをしたら、きっと、天使に生まれ変われる」  そうでしょ? と笑いかけられても、私は何も言えなかった。 「そしたら、天使様と同じになれる」  胸が苦しくて、ただうつむくことしかできない。 「あのね、きっと天使様は覚えてないだろうけど、俺は天使様に助けられたことがあるんだ」  体が痛むのか地面の上に緩慢に横たわりながら語る。 「俺、いっつも好き勝手してたからさぁ、悪魔からもあんま好かれてなくって。しくじって怪我した時に倒れても、誰も助けてくれねえの。ちょうどこの辺りで倒れてたっけ。羽が根本から折れるし痛くて動けねえしで最悪なのに悪魔は笑ってどっか行くし、なんか通りすがりの天使は『なんと哀れなことでしょう、神のお導きあらんことを』とかなんとか言って祈るだけ祈ってどっか行くんだよ? あー俺、このまま野垂れ死ぬんだろうなぁって思ってたら……天使様が来た」  全く覚えていなかった。私はこの悪魔といつどうやって出会ったかも覚えてなくて、それでもこの悪魔と話したくて会いに来ていた。 「なんかじろじろ見てくるな。こいつもお祈りすんのかなって思ってたら『死にかけの悪魔初めて見ました!』とかなんとか言って目キラキラさせながら近寄ってきてさぁ。触ってくるから焼けて痛いし、必死で振り払ったら『あ、全然生きてますね。なーんだ』って言うし。めっちゃむかつくから意地で治ってやったら『元気になってよかったですね』って笑いながら言ってくれた」  いやそれ私ただただ最低じゃないですか? 本当に助けた話なんですか? と少し訝しんでしまう。 「天使様がそんな風に話しかけてくれなきゃ、俺絶対もういいや〜って諦めてた。きっとあのまま死んでたんだ。だから天使様が助けてくれたんだよ。俺、いつでも素直な天使様が好き」  そう言いながら私に手を伸ばしてくるから困ってしまう。 「ねえ、天使様、俺に触って」 「……嫌です、焼けます。あなたが痛いんですよ」 「痛くてもいいよ。さわって」  ダメだとわかっているのに、そう促されると手が伸びてしまう。初めて頬に触れた。触れたそばからじりじりと焼けていくのがわかる。 「はは、すごい。皮膚が溶けてるみたい。俺、天使様と一つになってる」 「……どうして、あなたは」  それ以上は言葉が出なくて、それでも私の言いたいことは伝わったようで、ギャクは優しい笑顔を向けてくる。 「あんたのことが好きだからだよ」  知らなかった? とちょっと悪戯っぽく言う姿に私は今まで感じたことのないほどの強い衝動に駆られ、何故かギャクに顔を近づけようとしていた。  その時、パシンッと聞き慣れた音がした。弓矢を放す音だ、と気づいた時には遅かった。血を流しながらも肉体を保っていたギャクの体に天使の矢が刺さっていた。 「見つけました」  振り返るとそこにはさっき私を止めようとした天使を筆頭に多くの天使がいて、皆がギャクに向けて弓を向けていた。  やめなさい! と叫んだ瞬間に矢が放たれ、ギャクの体を貫き蹂躙する。首を射抜かれ、ギャクの頭がごろりと転がった。体は灰のようになって空気に溶けていく。  その姿を私は呆然と見ていることしかできなかった。 「あなたを惑わす悪魔は退治しましたよ」  優しい声だった。神に導かれる天使の、自分は善いことをしているのだと信じ切っている声だ。 「さあ、私達のところに戻っていらっしゃい」  腹の底から怒りが込み上げてくる。こんなことをしておいて、どうしてそんな風に笑って私に手を差し伸べることができるんだ。怒りを通り越してこれは憎しみだった。  差し出された手のひらを少しの遠慮もなく振り払った。それだけで何故かその天使は悲鳴を上げて倒れてしまう。他の天使たちは狼狽えながら私を見ていた。  その瞬間、こんなことが前にもあったと唐突に思い出した。私は前にもこんな風に仲間の天使を傷つけてしまったことがある。  私は忘れっぽい天使だ。それがどうしてか今になって思い出した。私の力が強すぎるから、平和と幸福の使命を受けて行動するには邪魔になってしまうかもしれないほど強い力だから、神によって力の大半を封じられたのだ。そのせいで本来の力を出せず記憶も散漫になっていた。なんてことをしてくれたんだ。どれだけのことを私は忘れてきたことか。  怒りが神の封印を解いた。今なら私はギャクをこんな目に合わせた奴らをどうとでもできる。怯える天使たちに向かって一歩踏み出したその時だった。 「てんしさま」  ギャクが私を呼んだ。「やめて」と言われた気もしたし「こっちに来て」と言われた気もした。  だから私は私たちを引き離そうとする奴らのことなんか全部忘れてギャクの頭を抱き上げ、その場を去った。  いつも私に会うのだからと綺麗にしていたギャクの髪が乱れていることに気づいて撫でつけると、触れたそばから焼けて風に流されてしまった。 「悪魔は頭だけになっても生きてるんですね。ああ、そういえば天使もそうでした。体に繋げれば元通りになることもあるんですよね」  でもあなたの体はもう無いから繋げることもできない。後はただ朽ちていくだけ。それならせめて私の手で焼く方がいいんじゃないかと思うのだ。 「天使には名前がないんです」  私はギャクの頭を胸に抱いたままそう話しかけた。 「だから私はあなたに教える名前を持たない。教えられる日なんて来ないんです。でも言い出せなかった。だって、だってあなたが、楽しみで仕方ないって顔をするから。だから私まで、名前を呼ばれたらどんな感じなんだろうって、考えてしまった。あなたに、呼ばれたら、って……私、名前があるあなたが羨ましかった」  ギャクは返事をしない。もう話せないのかもしれない。それでもギャクは聞いていると何故かわかった。 「私はあなたが羨ましい。妬ましかった。天使にあるまじき思想です。だってあなたは自由だ。好きな時に善いことができる。天使は違うんです。神の使命があった時にしか人間を助けることもできない。私の助けたいという意思は関係ないんです。ただ神の御心に従えばいいと教えられる。でも私は、わたしは、本当はあなたのように、あなたのようにしたかった」  出会った時のギャクの姿も今なら思い出せる。そのことを忘れてしまってもずっと私はギャクに会いに行っていた。何を忘れてもギャクに会いたいという気持ちは忘れなかったということだ。 「好きな人に、好きだと、なんの迷いもなく、素直に言えるあなたが羨ましい」  ようやく言えた想いだった。こんなことになってしまうまで言えなかった。やっと言うことができる。 「私こそ、あなたになりたかった」  ギャクの目が開かれる。焼けた顔の中でも優しい目をしているとわかった。 「天使様、泣かないで」  そう言ってギャクは焼け落ちていく。名前を呼びながら抱きしめる。跡形がなくなるまでギャクは燃えて、それと一緒に私の羽もはらはらと抜け落ちていった。  ギャクが似合うと言ってくれた羽だが惜しくはなかった。羽だけでもギャクと一緒に逝けたのだと思いたかった。  どうせ私はもう天使たちの中には戻れない、戻りたくもない。だから私は私として生きていくしかのだろう。  天使様、とギャクが呼ぶ声が耳の奥に残っている。ギャクにとっての天使が私であるならば、それだけできっと十分だ。
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