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彼女と『死』について話したことがある。人間が死んだあと、どうなるのか。意外にも、彼女は「天国がある」と言った。
「天国がある。死んだあとは、死ぬ間際の、その瞬間のことをずうっと考え続けるという天国が待っていると思う。」
「それって地獄みたいだけど」僕は口をはさんだ。
「人によっては天国で、地獄でもある。死ぬ間際のその瞬間が、その人にとって幸福なら、それは永遠の天国。そして、ある物事が、その人にとって幸福かどうかというのは、それについて他人に説明するときに、高揚感を感じるかどうかだと思う。けれど、高揚感というものは、感じている最中には、自覚するのが難しい。一瞬でも後になって振り返って、自分がどんなだったか、考えてみないといけない。だから時間の存在しない世界では、自分が幸福かどうか、判別できない。それを判定する者はいない。」
そのとき僕は、「死後の世界は『無』だ」という主張で頭の中がいっぱいで、そのときだけは、そんなことありえないのに、自分が彼女よりも正しいことを言っているような気がしていた。
僕はもう一度、彼女の笑顔が見たかった。どんな形でもいいから、彼女を楽しませたいと思っていた。色々な話をした。先生のモノマネをしたり、クラスメートの噂話をしたりした。もちろん、そんなことで彼女は笑わなかった。
下ネタを言ってみたこともあった。嫌われるかもしれないと覚悟していたけれど、彼女は極めて淡々と、そのことについての個人的な意見を述べてくれた。どんなことをしても、楽しそうには見えなかった。退屈そうでもなかった。夕方、部活で怒られた話をして帰って、次の日の朝には、前日に彼女が発明した瞬間冷凍装置がニュースになっていたりして、彼女のことがますますわからなくなっていった。
野良猫を見て笑ったとき、あの瞬間の気持ちを、彼女ならどう他人に説明するのだろう。
ある日、僕と彼女は、僕の家の近くの公園で、植え込みのレンガに並んで腰かけていた。いつもの別れ道を、その日彼女はこちらに曲がったのだった。
「わたしを笑わせないでね。」
と、彼女は言った。僕はぎくりとした。
「笑うなと言われているの。わたしが笑ったときに、よくないことが起こるって。理由は言えないけど、それは絶対に正しいから、わたしは笑ってはいけない。」
木枯らしの吹く季節で、指先がひどく冷えたのを覚えている。彼女の前髪が冷たい風に巻き上げられて、彼女はすごく嫌そうな顔をした。僕が何も言えないでいると、彼女が話しだした。
「寒い季節には、研究が捗る。解決したい課題が次々に現れるから。そのうち寒さはなくなるよ。冬という言葉はただ特定の期間を表す古い言葉になる。落ち葉を集める必要もなくなる。眼鏡は曇らない。地面は凍らない。手が冷たくてつらい気持ちも、なくなるよ。」
そう言われて、僕は馬鹿正直に、ポケットから両手を出して、まじまじと眺めてしまった。彼女は顔を背けて、言葉を続けた。
「こうなりたいと思う気持ちが、文明をもつ人間の本質であって、つまりは原動力なんだ。君は十分にそれを与えてくれている。」
そう言って彼女は立ち上がり、いつものように別れの言葉もないまま、歩いて行ってしまった。
人を好きになること、僕の彼女に対する気持ちは、彼女の言う『原動力』とはどうも少し、なんだか違っているような気がした。自分が「こうなりたい」という理想の姿は、僕には思いつかなくて、ただ彼女を笑わせたい、何かを変えたい、「こうしたい」と思うことしか、僕にはできなかった。
その点、彼女が立派だなと思うのは、何かを変えるというのは手段に過ぎなくて、だから力をふるって満足するということもなくて、「こうなりたい」に向かってただ進んでいるのだという、そのつつましさだった。彼女と話すようになってから、僕まで少し頭がよくなった気がする。
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