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勇者の娘 ③
来た道を辿り地下室を出る。
ベイアーを捕まえるべく駆け出したベリスの鼻腔は静まり返った真夜中の森に漂う仄かな香りを捉えた。
「っ!?」
鼻をつく異物は胸の奥から嫌悪感を溢れさせ体中から熱を奪っていく。
錆びた鉄のような匂い。
その正体に察しがついた瞬間弾かれたように村の方へと向かう。
気のせいであってほしい、思い違いであってほしい...!!
そう思いながら足を進めるごとに匂いはより強く粘度を増していく。漆黒の森を抜け、木造の家々が並ぶ集落を捉えたベリスの視界にそれは飛び込んで来た。
「あっ...あぁっ...!」
「よう。待ってたぞ」
まずは肩に奪った剣を担ぐベイアー。次にその背後にある見るも無惨に破壊され尽くした馬車、そしてその傍らに転がる赤黒い...
「うぇっ!げほっ!!」
それが何かを理解した瞬間、ベリスの喉を嫌悪感が駆け上がり口をついてあふれ出る。
赤黒い塊が纏っている灰色の布切れに見覚えがある。今朝笑いながら外の話をしてくれた行商人が着ていた服だ。
「ふんっ。汚いな」
「どうして...?どうして、こんな...」
「言っただろう?試し斬りだ」
そう言って剣の切っ先をこちらに向ける。月明かりに照らされた白刃にはおびただしいほどの赤がべったりと付着していた。
その瞳に歓喜をたぎらせ残忍な笑みを浮かべるベイアーに当初の面影はなく、顔が同じな別人と話しているかのような違和感さえ覚える。
「何が勇者の剣だ。そこらの剣と何も変わらないじゃないか」
冷酷な嘲笑が夜の森に木霊する。ベリスに彼の言葉は届かない。
その視線が背後にある哀れな犠牲者に釘付けになっていたからだ。
「わたしのせいだ...!わたしが、抜いたせいで...!」
この男の口車に乗らなければ、剣を抜かなければ彼は死なずに済んだだろう。
今日という日を越えて明日も悠々自適に行商の旅に出発していたかもしれない。
しかし、そのもしもはもう訪れない。
自分の選択が未来を奪ってしまったのだ。
「...か」
「あっ?」
「あなたは何なんですか!?どうしてこんなひどいことができるんですか!?」
「そうだな...。剣の礼だ。少しだけ付き合ってやる」
剣を下ろしたベイアーは空いた左手を握り、親指を立てて自分を指した。
「結論から言おう。俺は魔王様の臣下だ」
「魔王軍残党!?」
「ちょっと違うな。俺は魔王様に忠誠を誓った人間だ」
「どうして!?あなたは人間じゃないですか!?」
「貴様の物差しで測るな。あんな老いぼれ共より魔王様にこそ仕えるべき魅力があると判断した。それだけの話だ」
剣を持ったまま両手を広げるベイアー。
「人間など歯牙にもかけぬ圧倒的な力!意にそぐわぬ者を黙らせ望むもの全てを手に入れる絶対的な暴力!!法や秩序などという弱者の枠組みに生きる矮小な貴様等にあの御方の素晴らしさは到底理解できまい!!」
芝居がかった大仰な口調で語るその表情には言い知れぬ恍惚が浮かんでおり、人間でありながら魔王に心酔しきっていることが窺えた。
「魔王はもう死にました!こんなことをして何になるんですか!?」
「死んだなら蘇らせればいい!お戻りになった王にこの剣を手土産として献上し側近に取り立てて頂く。そのためにこんな辺鄙な村まで来てやったんだよ!!」
「魔王を、復活させる...?」
ベイアーの口から発せられたそれは一介の村娘が受け止めるにはあまりにも壮大過ぎるものだった。
「欲というものは際限がない...」
「えっ?」
「最初は剣だけのつもりだったが、もう一つ欲しくなった」
そこで言葉を切り剣の切っ先をベリスに向ける。
「シャルステッドの娘。貴様の首も手土産に頂戴する」
「...っ!!!」
突如向けられる抜き身の殺意。
争いや命のやり取りとは無縁の世界で生きていた少女にとってそれは劇薬でしかなかった。
体の芯から急速に熱が消え、音と視界が意識を落としたかのように狭まる。
物も見えず音も聞こえない。
もう死んだのではないかという錯覚すら覚える中、うるさいくらいに鳴り響く自分の拍動だけがまだ生きていることを証明してくれる。
怖い...!!
熱を失った手足が震え立つことすら覚束なくなる。
口の中がカラカラに乾くのとは対象的に目からはとめどなく涙が溢れ視界を滲ませる。
滲む視界に映るベイアーが剣を構えてゆっくりと近づいてくる。
「父の剣が娘を殺す。感動的な再会じゃあないかっ!」
今すぐにでも逃げ出したい。その願いが叶ったのかほんのわずかに自由になった足が距離を取るべく後ずさった。
「あぁ。逃げてもいいぞ。その場合手土産がこの村になるだけだがなぁ」
「っ!?」
「母親も、村の人間も皆殺しだ。全員魔物の餌にしてやる」
殺す?
母を、パラ爺を、ミデルを、皆を...。悪意の手にかかった行商人のように。
その意味を理解したベリスの足がぴたりと止まる。
命を諦めたからではない。
恐怖とは別の感情が胸の奥底から湧き出してきたからだ。
「いい子だ...。死ねぇっ!!」
接近したベイアーが凶刃を振り下ろす。
飛び散る血飛沫、漆黒の森を鮮やかに染め上げる赤。
そんな惨劇は...訪れなかった。
「はぁっ!!」
「がぁっ!?」
剣を振り上げたその刹那、ベリスの拳がベイアーの空いた脇腹を殴りつけた。
子供を背負って木から木へ跳び移るほどの身体能力を持ったベリスの一撃は子供と油断していたベイアーには効果てき面だったらしい。
まともに受けたベイアーは剣を取り落としもんどり打って転倒。その隙に剣を拾い上げたベリスは両手でそれを構えて対峙する。
「ぐっ...!!が、ガキがぁっ!!」
よろよろと立ち上がりベリスを睨みつける。だが、それを受けても尚恐怖は湧いてこなかった。
「出てって!!お父さんの剣も!みんなの命も渡さない!!」
意識を新たに剣を構え直す。
初めて握った真剣。見るのも触るのも初めてなはずなのにその手触りも重さも不思議としっくり来た。
この剣、パラ爺のと同じだ...
手に馴染む理由はパラポンの家で素振りし続けた木剣。全長と重量、柄の幅に至るまで全く同じだったのだ。
あまりにも出来すぎた偶然に首を捻っているとベイアーがくつくつと笑い始めた。
「何がおかしいの!?」
「微笑ましくて笑えてきただけさ。それで勝ったつもりか?」
剣を取り返され抜き身の真剣を向けられている状況にあってもベイアーは余裕を見せている。
それは嘘ではないらしくベリスを睨む瞳からは児戯を嗜める大人の色すら窺えた。
「ここで使うつもりはなかったが、おいたをしたガキを叱るのは大人の役目だよなぁ?」
ベイアーの一挙一動を見逃すまいと剣を構えて注視するベリスの目の前でベイアーはロングコートの内ポケットから手に納まるほどの黒い紙のようなものを取り出した。
『FOREIGN-AM』
地の底から響いてくるようなおぞましい声がどこからともなく聞こえてくる。
この場にいる誰のものでもないその声が発した言葉は聞いたことがない難解なものだった。
余裕たっぷりと言った笑みを浮かべたベイアーが黒い紙を胸に当たる。
そして変化は訪れた。
紙を当てた胸に突如ヒビが入ったのだ。
テーブルにぶつけてヒビが入った卵のように走った亀裂は胸を起点にみるみるうちに全身に広がっていく。
そして亀裂が全身に回り...爆ぜた。
「きゃあっ!」
突如巻き起こった突風を剣を盾にするようにしてやり過ごす。重い剣がなければ吹き飛ばされていたかもしれないような突風が止んだ頃、ベイアーがいた場所には真っ暗な靄のような人型があった。
「な、何...!?」
人の形をしていたそれは次第に大きくなり、今朝対峙したデッカグマに匹敵する大きさへと姿を変える。
腕には茂みのような剛毛が生え揃い、その手からは剣のように長く鋭利な五本の爪が伸びてきた。
地面を抉る太い爪を持った巨大な足、一本一本が研ぎ澄まされたナイフのような牙を持つ長い口、人のそれとは形も位置もかけ離れた長い耳。
全身を毛で覆われおよそ人の姿をしていないそれは最早人と呼べる代物ではなくなっていた。
「ま、魔物...?」
「紋章をここで使うとは...なぁっ!!」
目にも止まらぬ速さで跳び出したベイアーが鋭利な爪を持つ腕を薙ぐ。
一度触れれば瞬く間に物言わぬ肉塊になるであろう凶悪な一撃をやり過ごしたのは奇跡のような反射行動だった。
日頃の訓練の賜物か、はたまた運が良かっただけなのか...。
袈裟に振り下ろされた右腕を剣で防いで直撃を回避。だが、ベリスの体では強大な膂力を受け止めきれない。
衝撃まで殺すことはできずに吹き飛ばされ近くにあった木の幹に体を強かに打ちつけた。
「ぁっ...!!」
声にならない呻きが漏れる。叩きつけられた衝撃で肺の空気が全て抜け切ってしまい焼け付くような痛みが胸を襲う。
全身が悲鳴を上げるかのように痛みを訴えるが痛がっている暇はない。
ベイアーは既に目の前にいる。
「ほう?筋がいいな」
「くっ!ふぅっ...!!」
休み暇もなく浴びせられる攻撃はどれもが重く鋭い。一発でももらえばひとたまりもないだろう。
そんな攻撃の数々を小さい体と軽い身のこなしでかわすので精一杯だった。
今日ばかりはパラポンの特訓に感謝してもいいかもしれない。
パラポンの不意打ちで鍛えられた察知能力のおかげで暗闇の中でも攻撃の来る方向が直感的に理解できる。
この剣もそうだ。
毎日のように振っていた木剣と全く同じ物だったおかげで重りではなく攻撃を防ぐための道具として機能している。
だが、このままでは埒が明かない。
何合目になるか分からない攻撃を回避してベイアーだった魔物と距離を取る。
「ちぃっ!ちょこまかと...!!」
最初は余裕だったベイアーも業を煮やしたのか苛立ち混じりに吐き捨てる。
「はぁっ、はぁっ...!」
対するベリスに余裕など微塵もない。
蓄積した疲労で息が上がり、打ちつけた痛みが熱を帯びて立っていることすら精一杯な有様だ。
避けきれなかった攻撃が掠めた箇所からは鮮血が滲み、流れ出る血がベリスの意識を闇に誘おうとする。
それでもなお倒れない。いや、倒れてはならない。
「何故そこまでできる?勝てないことくらい分かっているはずだ」
「...」
「理解に苦しむな。同郷の者とは言え所詮は他人。命を賭けて守る意味などどこに...」
「あるっっ!!!」
今にも崩れ落ちそうな体に必死に鞭を打って体勢を保つ。
予想以上に大きな声になってしまったがこれくらいでないと力が抜けてしまう。
「お母さんもパラ爺も皆も...私にとって大切な人達だから!」
「綺麗事を...」
「それだけじゃない。お母さんを騙して何もしてない人を殺したあなたを絶対に許さない!」
「おいおい。剣を渡したのはお前だぞ?責任を擦り付けるな」
「分かってる。だからここであなたを止める!絶対に!!」
「...ぷっ!ははははははっっっ!!!ガキが吹かしてくれる!」
ベリスの決意を踏みにじり嘲笑するベイアー。
いつ攻撃が来てもいいように視線を外さず睨み続けるがその体は小刻みに震えていた。
限界が近いというだけではない。湧き上がる根源的な恐怖が体を竦ませているからだ。
怖い...!
威勢のいいことを言ってみたもののベリスの心は恐怖というどす黒い影に鷲掴みにされていた。
彼の言う通りこのままでは勝ち目はない。そう遠くないうちに殺されてしまうだろう。
そうなれば次はファマリ村が標的になる可能性が高い。
ここで負ければ皆が死んでしまう。
優しい母が、変わり者のパラポンが、一緒に外の話を聞いて笑い合った子供達が...。
最悪の未来が足を竦ませ体を震え上がらせる。
怖いよ...お父さん...!!
村人全員の命が自分の手にかかっている。
それは幼い女の子が背負うにはあまりにも重く残酷な現実だった。
歯の根が合わずぶつかり合った歯がカチカチと音を鳴らす。
震える体は剣を支えきれず重い剣の切っ先は次第に下がっていく。
無理...無理だよ!わたしなんかじゃ絶対に...!!
だが、勝ち目のない絶望の中にあっても剣を握る手を離さず体はベイアーの方を向いている。
逃げ出したくてたまらないのに未だ立っていられる理由。
その答えはとうの昔に出ている。
「...でも」
「あっ?」
「それでも!!わたしは負けない!負けたくない!皆を守れるのも!仇を討てるのも!わたししかいないから!!」
「はっ!吠えたところで何になる!?」
冷ややかに見下しながら俊足を持って突撃する。
体は既に限界を越え打開策もまるでない。
そんな状況にあるにも関わらずベリスの胸中はかつてないほど穏やかに澄みきっていた。
大きく深呼吸をしてベイアーを迎え撃つ。
何度も打ち合ったおかげだろうか?心なしか動きが遅く見えた。
柄を握る手にほんのりと熱が宿る。
握りすぎて熱が移っただけだろう。だが、今のベリスには別の要因があるような気がしてならなかった。
お父さん...?
シャルステッドが一緒に戦ってくれている。熱の理由をそう結論付けたベリスは腕を振り上げ襲い来るベイアー目掛けて突進する。
「なっ!?早っ...!!」
小柄な体は瞬く間に懐に潜り込み振り上げた右手を捉える。
そして下段に構えていた剣を腰のバネを活かして振り上げ...
「やぁっ!!」
固い何かにぶつけたかのような手応え、舞い跳ぶ黒い飛沫。
後に残されたのは剣を逆袈裟に振り上げたベリスと...
「あっ、がっ...があぁぁあぁぁぁぁっっっっ!!!???」
右腕を切り落とされたベイアーの姿だった。
耳をつんざくような断末魔に振り返る。
そこには失った腕を残った左手で押さえ苦悶の表情を浮かべるベイアーがいた。
斬った?私が...?
「貴様ぁ...っ!」
怨嗟の声を漏らしながらベイアーが肩越しに振り返る。だが、ベリスが握るそれを見た彼の表情はたちまち戸惑いと驚愕に強張ることになる。
「なっ、なんだそれは...?」
「えっ?」
その視線を追うと自分の手元にたどり着いた。
さっきまで握っていたはずの飾り気のない父の剣。強大な怪物と打ち合っても壊れないだけで何の変哲もなかったはずの剣が...
「な...なにこれぇっ!?」
極彩色に光り輝いていた。
刃から柄に至るまでの全てが見る角度によって色が変わる不思議な色彩を帯びており、剣ではなく一本の細い柱のような印象さえ受ける。
その輝きを見ているだけで不思議と体が軽くなり力が湧いてくるような気分になる。
傷の痛みも少しずつだが治まってきた。
これなら...いける!!
剣を構え直しベイアーへと肉薄する。
「舐めるなぁっ!!」
右腕を失ってもなお闘志が折れぬベイアーはそれを迎え撃つ。
何度も見た構図。だが、形成は完全に逆転していた。
「ふっ!せいっ!はぁっ!!」
光を宿した剣を振るうベリスは先ほどまでの防戦が嘘のように攻めへと転じていた。
どうやら気分ではなく本当に体が軽くなって力が湧いているらしい。
速すぎて直感的に回避するので精一杯だったベイアーの攻撃が今では完全に目で追える。
片腕を失ったベイアーの攻撃は自然と精彩を欠いたものとなり、夥しい出血と疲労で攻撃はどんどん遅く大振りになっていく。
その肉を貫かんと突き出された左手をがら空きになった右側に潜り込む形で回避。
そして空を切った左手を真横から叩き切る。
「ぎいああああああああああああっ!!」
ついに両手を失ったベイアーの咆哮が虚しく木霊する。
最早攻撃の手段はない。
剣を振って刃についた血を払い、両腕を失ったベイアーを睨みつける。
「そんな...嘘だ。こんな、こんなはずじゃ...」
うわ言のように呟きながらじりじりと後ずさり...
「う、うわあああああああっっっ!!!!」
恥も外聞もかなぐり捨て背を向けて逃げ出した。
逃げたところで両腕を失った魔物ができることなどなにもない。その前に失血死する可能性が高い。
それだけは絶対に許さない。
「逃がさないっ!!」
その背を追って地を蹴る。
腕を失いバランスを欠いたベイアー。五体満足で勢いづいたベリス。
ふらつきながら逃げる背をあっという間に捉え、肩に担ぐようにして剣を構えて跳躍する。
その音に気付いたベイアーが振り返る。
「やぁーーーっっ!!!」
その目に映るは極彩の剣。そして自分に引導を渡す剣の使い手。
「ブレイ、ガリア...」
それは宙を舞う首が発した最期の言葉だった。
永遠にも思えた化外の悪意との死闘。それは夜明けにも満たないわずかな時間で決着した。
淡い輝きを放つ剣が照らし出すのは血溜まりに沈むベイアーだった物と森に転がる物言わぬ首。
そして荒い息を吐きながらそれを見下ろすベリスの姿。
「はぁっ、はぁっ...!」
斬った。初めて人を斬った。
魔物になったとは言え元は人間。その首を斬って殺した。
初めて人を殺した。
骨肉を断ち命を終わらせた感触はこの手に鮮明に残っている。だが、その事実を受け止めてなお何も思うことはなかった。
「初陣で大物を仕留めるとは...。付け焼刃でも仕込んだ甲斐があったわい」
「っ!?」
声のした方を振り返る。木の陰から現れたのはパラポンだった。
「パ、パラ爺?」
「探すのに手間取ってしもうた。危険な目に遭わせてすまなかったな」
「ううん!ありがとう!」
「段階を踏ませるつもりだったが、認めたなら仕方ない」
「えっ?」
言葉の意味が分からず首を傾げるベリスに向かってパラポンは恭しく跪いた。
「パラ爺!?」
「シャルステッド陛下が崩御なされて早5年。王家の剣が貴女様を認める日を指折りお待ちしておりました」
「陛下?認める?」
「不肖パライト・オルゲン。これより貴女様に御仕えさせていただきます。ベルナリス・グレアリオ王女殿下」
「お...王女ぉぉぉぉっっっ!!????」
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