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実のところ、俺はこれまでこうしたものに手を出したことは一度も無かった。
なんせ、当選は隕石に当たって死ぬより低い確率だって聞いたことがある。
どれほど高額な金額を謳われようと、当たる筈がないと高を括っていた。
それに、その万か、億にかのひとつがもし起きた場合には、人生を狂わせそうで、逆に怖いと考える臆病者であったのだ。
「あら?店長、宝くじを買ってみたんですか?」
奥のスタッフルームから顔を覗かせたのは、レイさんだった。
彼女は、俺よりも一回り以上も年下の二十二歳だというのに、『ちゃん』ではなく、『さん』と呼ぶ方がふさわしい大人びた女性だった。事実として、娘の他に彼女をそう呼ぶ者はいない。
そして、スタッフルームなんて大袈裟な呼び名を付けているが、うちのスタッフは常勤の彼女の他に、入れ代わり立ち代わりで大学生のアルバイトが二人いるだけだ。
そして、彼女はアルバイトの彼らとは違い、厨房を任せられる敏腕の料理人でもあった。
いやはや、実のところ俺よりも腕が良く、彼女あっての『ビストロB&C』である。
元々が珈琲専門店として始めた店である為に、俺はシェフよりもバリスタに特化しているのだ。
「物は試しに初めて買ってみたんだ」
やはり買ったからにはその可能性を意識してしまう。
取り分け、彼女の前では。
「ふふっ、当たったら奢ってください」
ゴロにゃんと、招き猫するポーズがあざとく可愛いよりも、彼女の場合はクールに視える。
真っ白な厨房着から一転して、今は黒のライダースーツに身を包んでいるから尚更だった。
レイさんの愛車はオートバイだ。
「ははっ、了解。帰り、気を付けてね」
「はい。おやすみなさい、店長」
『お疲れさま』よりも、『おやすみさない』を彼女は選ぶ。
そんな些細な言葉選びに、一々親近感を覚える。
「おやすみ、レイさん」
はにかんで笑うと小さな八重歯が覗いて、可愛らしいことも俺は知っているけれど、サラリと流れるショートヘアを掻き上げて、フルフェイスのメットを被る彼女は素直に格好良い。
帰り際だけに仄かに芳る香水は、彼女の女性らしい嗜みなのだろう。
こんな時間から誰かに会う気なのだろうかと、思わないでもないけれど、それが彼女のスタンスだと知って、もう随分だった。
過ぎ去るバイク音を聞き遂げてから、俺はもう一度カウンター席に腰を据えた。
シンと静まった店内で、俺は独り小さく息を吐いた。
ドキドキと逸る心音を黙らせる。
これは、宝くじに期待を湧かせているからというものではない。
この宝くじを見ていると、認めざるを得ないからだ。
俺が彼女に抱く恋心を。
信頼できるスタッフとしている以上に、ひとりの女性として俺は彼女を意識している。
俺が宝くじを買うに至った理由は、彼女にあったのだ。
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