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野球が好き、それは後付けだ。
五才上の兄の試合を二才上の姉と共に見に行った。
兄は五年生だが公式戦に出ている。キャッチャーミットの快音と保護者達の感嘆の声。そしてそれを打ってみせた兄。母は得意そうに締まりのない顔をしており、父は熱心に撮影している。
「お兄ちゃん格好いいね」
「だね!」
姉もまるで自分の手柄のように、にやついている。
香梨は幼稚園の年長で、まだ野球のルールは分からない。兄が凄いらしいとしか分からない。かっこよくて少し怖そうな小学生のお兄さん達は腰を低くして構え、ボールを待ち構えている。投手が全身で投げ込めば野手が跳ねるように抑える。それは守備だが幼い香梨には攻めている姿に見えたのだ。
「私も野球する!」
帰りの車で堂々と姉が宣言した。兄は部のバスで帰っている。
「女の子が? いいけど、厳しいよ?」
「大丈夫だもん!」
母の心配をあっさり蹴って、姉は野球を始める事にした。
「香梨も一緒に行こ!」
香梨は頷いた。
その時の香梨に野球をしたいという強い意志は無く、あくまでも仲の良い姉に続いて、という形だった。鬼ごっこに誘われて加わるのと全く同じ。
それから三年経った。
兄はキャッチャーとしてリトルシニアでプレーしており、姉はリトルでピッチャーだ。
姉は小学四年生まではレギュラーで、公式戦にもよく出ていた。だが五年生になってから徐々に試合に出されなくなっていく。それでも続けていた。
兄もリトルシニアで一年生までは期待されていたが、二年の春に怪我をした。兄自身は諦めていなかった。
だが両親は上の子二人の様子に俯きがちだった。
末っ子の香梨は全く気にされなかった。
試合の日、香梨のユニフォームはいつも真っ白い。香梨は兄と姉とは違いポジションが無くレギュラーになった事もない。両親も香梨の事はあまり心配せず、楽しくやるのが一番だという態度を貫いている。
香梨は何も気にしていなかった。
リトルの女子達との練習の合間のおしゃべりを楽しみにして、辛い練習を乗り越える。そしてグラウンドを丁寧に慣らす。
たったこれだけで香梨は充実していた。
兄姉と違い、他に勝ちたいという欲は無く、体を動かし白球を綺麗にグラブに納めて投げ返す事そのものが日常の楽しみだった。ノックで徐々に広がる守備範囲が楽しくて、他の子に比べてどうかなど気にしなかった。
土の匂いと空の青、降り注ぐ日の光。
教室とも家ともまた違う世界にいてとても楽しい。
ある晴れた日。
下級生同士の紅白戦。既に試合を終えた上級生達は弁当を配られ始めている。
普段試合に出ない香梨に決まったポジションは無い。
「今回はセカンドな」
「はい」
普段はライトが多い香梨だが、偶然セカンドを任せられた。
セカンドの定位置に着いた香梨は怖くなった。フライなら捕れるがライナーは怖い。捕り損ねて体に当たるのをつい恐れてしまう。その間に何本も一二塁間を白球が抜けていく。
私がなんとかしなきゃいけないボールなのに、と焦りばかりが強くなる。
センター前に抜けるライナーをショートとお見合いした。
今のは私はどうすればよかったんだっけ……とまたしても香梨は焦る。
試合は嫌。怖い。誤魔化せない。ずっと練習ならいいのに。
逃げたい気持ちが知らず知らずのうちに、香梨の守備位置を下げていった。
守備位置が後ろだと打球の勢いがやや弱まったところで捕球できる。なんとかグラブに納める。
だが肝心の送球が逸れてしまい、ファーストが捕れなかった。そのせいでホームインされた。
かえって私が取れずにライトが捕った方がよかったと、香梨は萎縮した。
香梨の心はグダグダで、もう最終回だ。怯える香梨は一塁寄りの後ろで構えた。
ここならライナーも少しは怖くない。すぐライトが捕ってくれる。ショートとお見合いする事もない。うっかり私が捕ってもファーストにすぐ投げられる。
そのような理由で香梨は何度も深呼吸して、苦しい胸の内を押さえつけた。
金属バットが甲高く鳴り、一際強く飛ぶ。一塁側だがファーストは捕れず。
後方にいたライトが必死に前に走る。
一二塁間やや後方という、絶妙な位置にボールが落ちる、はずだった。
香梨の小さなグラブに白球が納まった。それはあまりに自然で、香梨は驚き、落球する事もない自分を信じられなかった。
いつの間にか、香梨自身も知らないうちに落球せずしっかりと捕る力がついていたのだ。
試合が終わり、女子から褒められ、男子からも褒められた。
「頑張ったな」
普段は何も言わない監督に褒められて、香梨は自分のした事の大きさを知った。
「どうしてあそこにいたんだ?」
優しく問う監督に、香梨は何も答えられなかった。監督はそれを許して笑った。
「いつか、はっきり言えるようになるといいな」
香梨は頬を染め俯き続けたが、それは羞恥だけではない。
そこにいた理由自体は、怖かったからという恥ずかしいものだ。
だがまるで白球の方から香梨に来たようだった。
体も心も熱い。強い喜びが香梨を目覚めさせた。
高校一年生の兄、悠梨の応援で甲子園に応援しにきた小学五年生の香梨は、ぐるりと囲まれた阪神甲子園球場の世界の中で、たった一つ、大切な存在を見つけた。
高校一年生の兄は汗を浮かべてスタンドでメガホンを手に力の限り叫んでいる。保護者席の香梨は兄や応援する人達を気にせず、フェンスを掴んで黙々と試合を見ていた。
街から入り込むと他とは違う風が吹く甲子園球場。空がドームの代わりを果たす。応援の雄叫びと勇ましいブラスバンドの音達の中、さらに内側に切り取られた球児のためだけの舞台。
悠梨の相手高のショートだけ線が細い。一年生なのかもしれない。
ブラスバンドの音で充満している空間を金属バットの音が切り裂き、どよめきをもたらす。暑さが脇役になるほど、球児達が中心となり皆を惹きつける。
強打者よりも、投手よりも、香梨が見ていたのはショート。
上から見下ろせば内野の陣形がよく分かる。一球ごとに打者を誘い込む七人の網。捕手の指示と野手の位置どりの後、初めて投手が動くのだ。
『やっぱり、ショートの場所に打たせているの?』
香梨は今すぐにでも誰かに聞きたかった。ただ、相手高の事なので聞きにくい。悠梨の先輩達がやられているのだから。
内野は小まめに位置を変えたが、中でもショートは常に動く。腰を低くして構える姿は、全ての策を完成させたかのような落ち着きよう。そして打球音と同時に土を蹴る。
空高く響く金属バットの音に皆が騒ぐけれど、すぐにグラブに捕まえられる。またショートだ。
私以外は皆、投手ばかり見ている。香梨は周りに対して優越感を抱いた。私にはあのショートの凄さが分かるよと。
あのショートはどこに打球が来るか読んでいる。
香梨は彼の名前を覚えて、漢字も忘れないようにした。
兄の高校の敗退を悲しむのもそこそこだった。
岩手に帰った後、甲子園二回戦の放送で彼のファインプレーがいくつも報じられる。
やはりそうでしょ、私は分かっていたのと、香梨は幼い頃より切長になった目を細めて、にっこり笑った。
テレビ画面で彼がアップに映る。彼の顔立ちを始めて見た。
映るのは僅かな時間。
香梨は彼の顔を覚えるために画面に歩み寄った。
香梨は中学一年生になった。
高校に入学したら女子硬式野球部で背番号六になる。そして甲子園で優勝する。そのためにリトルシニアで練習しているのだ。
いつか、その日のために。
秋の新人大会二回戦。
何故私が一軍になったのかと、香梨は疑問でいっぱいだった。
同点の最終回裏ワンアウト二塁。曇天のベンチで草薙が代走だと監督が言う。
なんでこの重要な場面で私? と、正直思った。
ベンチの皆は純粋に応援してくれるが、本当に全員納得しているのだろうかと香梨は眉をひそめる。
「頑張れよ!」
「……うん!」
明るく返事をしてみても、皆に応援されても落ち着かない。
打順は七番の百瀬千春に回る。女子達の憧れであるスタメンのファーストだ。彼女はネクストバッターボックスから静かに立ち上がる。
盗塁してからの犠牲フライ狙いだろうけど、他の代走じゃ駄目なのかなと思う。
「草薙」
「はい」
五十代後半の、目尻に深い皺のある監督は表情が読めない。まさか今更オーダーを覆すのだろうか。
監督がすっと相手ピッチャーを指差す。
投げる前、足元をとんとん鳴らすようにつま先で足踏み。表情は一生懸命だ。
グラブはきつく閉じず、やや膨らみがある。香梨の視線はそこにロックされる。
「分かるな?」
「……次に何を投げるかという事ですか?」
「そうだ」
今のピッチャーは三人目で、最終回開始時点で変わった。
五番がツーベース、六番が三振。
百瀬千春が打席に入る。柔らかい体を持つ背の高い左打者。
「百瀬にはカットするよう言ってある」
「分かりました」
ベンチから白線を一本越えるだけで違う空気の場所に来た。曇天の下、ピッチャー越しに、ランナーと戦うキャッチャーと対峙する。後ろには相手の野手。香梨を全力でアウトにするための存在。
不思議な気分になる。スタメンの人達はこの感覚に慣れきっているなんて。
一年生の二塁ランナーの男子とバシッと手を叩くと、彼はにこりとした。
「ピッチャーびびらせろよ、まずはさ!」
「うん!」
返事は元気よく。本当は不安だけど、交代する人に不安を見せるのはよくないと、香梨は緊張を隠した。
こうして、今大会初の香梨の出番だ。
リトルシニア入団後初の公式戦でもある。
代走という事で警戒するピッチャー。香梨はさらに警戒させるためにリードを大きく取る。
案外私でも警戒されるのだと驚いた。ランナーがリードすれば警戒して当然なのだが。よほど試合の感覚が久しぶりなのだと香梨は気付く。
相手チームの野手に囲まれ、キャッチャーに視線を送られて、怖いと感じるのに体は不思議と動く。
わざと大きくリードを取って牽制球に負けずに塁に戻る。至近距離で響くセカンドのグラブの音。
観客が多いわけではない。両チームの保護者くらいだ。それでもグラウンドに注がれる集中は香梨とピッチャーだけに注がれた。
他の代走でもいいのに何故私なのかなという、思い込みが剥がれる。
「いいぞいいぞ!」
「ピッチャーびびってる!」
「香梨ちゃん頑張って!」
ベンチの男子達から、そして女子からも声援が飛んできた。皆に応援されて落ち着かないという心が変わっていく。体が軽くなる。
さらにリードを大きくして、非常に際どく戻ってセーフにしてみせた。
ピッチャーの悔しがる顔と香梨の嬉しそうな顔。両ベンチが沸いた。
もっと、もっとだと香梨は欲を出し、にこりとして塁から離れた。
かなり大きくリードを取り揺さぶったが、仕留めるようないい牽制が飛んでくる。
セカンドのタッチを免れようとヘッドスライディング。湿った土がユニフォームにべったりとつく。審判はセーフと告げたが、束の間迷った様子があった。試合の高揚とまた違う、ひやひやした心で心音が高鳴る。
危ない……! 香梨は正直駄目かと思った。ピッチャーにびびらされてしまうなんて。本当は逆がいいのに!
打席の千春が、気をつけてという顔をしてくる。確かに危なかったですと、心の中で返した。
三回目に刺されそうになったのはさすがに計算外だが、これも作戦だ。
もう無茶はしないと示すようにリードを小さく。だけどあからさまにリードしないとなると作戦があると疑われるので気をつける。もう牽制は飛んでこない。
盗塁を諦めたと少しでも思わせたかった。代走に代わったままじっとしていると警戒され続けるだろうから。
二塁への牽制でピッチャーの緊張もほぐれたのだろう。のびのびしたいい球だ。
本当にのびのびしていて、ピッチャーのありのままの姿が見える。
緊張状態では隠れてしまう癖がある。
香梨はピッチャーの背を、モーション中に見える腕の振りを、盗塁に消極的になったフリをして見ていた。
千春は一球目のカーブを一塁側にカットして、二球目のストレートを見た。今までベンチから見ていたものも含め、香梨はピッチャーの癖が分かってきた。
緊張が強くなると同時に、感覚が冴えてくる。
ツーストライクに千春を追い詰めたピッチャーがカーブを投げると分かったのは、一球外すだろうという推測のためではない。
分かったのはモーションに入った直後だ。香梨が走り出すタイミングの方がピッチャーの手からボールが離れるより早かった。
三塁へのスライディングに余裕があり、私の勝ちだという確信がある。セーフだ。盗塁成功。
バッテリーの焦る顔に、香梨は喜びを感じた。やってやったという気持ちがあり、にこにこする。
カーブを投げる前、グラブの角度が若干違っていた。千春のカットと香梨の観察でその癖を見抜いたのだ。ベンチに帰ったら皆に話そう。
ベンチで監督が頷く。
そしてこれから本当の攻撃をする。
スリーボール、ツーストライクに千春が追い込まれるまで、香梨はあえて動かなかった。その間、千春は一塁側、三塁側、バックネットと徹底的にカットしていた。
ピッチャーはキャッチャーと見つめ合い、心を落ち着かせる。そして今からバッテリーの集中の時が始まる、その時に香梨のリードは牽制された時以上に大きくなるのだ。
なおもカットをし続ける千春に、もう決め球のフォークを投げなくなっている。三盗を決めた香梨相手にホームスチールを恐れているのだ。それでいいの、と香梨は緩む頬を必死で抑える。表情でばれたら笑えない。
まあバッテリーどちらもかなり焦っているのばればれだからねと、香梨は目を細めた。
監督が千春に指示を出す。
千春はカットは終わったと宣言するかのように軽やかな当てに行くスイングをして、レフトへ。
レフトフライでアウト、そして香梨は三塁を蹴る勢いでホームへ走り出す。
必死で脚を動かし続ける。ボールがどこまで返っているか確認はしない。
それにしても私が相手ピッチャーの球種をいつも見ているなんて、監督はよく気がついたなと香梨は恐れた。やはり自分より力を持つ人からは、実力が把握されているのだ。
千春がアウトになってツーアウトなのだから、次の打者が打つのにかけて、ここでは走らないという選択肢もあった。深いフライならともかく、浅いフライなのだ。
それでも、外野と中継の送球を今まで見てきた限り、ここで勝負をしようと踏み切るのが最善だ。
監督は香梨の実力を見抜いており、相手を観察している事も把握されていた。
だけど、きっと、ここで帰って来られるとまでは想定していないはず。だからこそ帰ってみせる。
失敗すれば負けるけど、どうせ牽制で刺されていたかもしれないのだから挑戦した方がいい。少なくとも香梨にとってはそれが正解。体は軽い。
キャッチャーへの返球がショートバウンドになると視界の端に見えた。ならキャッチャーは前に体重をかけるしかない。香梨はキャッチャーの背に回り込むイメージでスライディングをして、ホームベースの左端ぎりぎりに指をかけるようにタッチした。
「セーフ!」
審判は少しも迷わなかった。ホームに触れた指をぐっと握りしめてガッツポーズ。私の勝ちだ。香梨は土のついた髪を手ですいて微笑んだ。
駆け寄ってくるチームメイトも監督もそれ程驚いていない。私はこんなに驚いているのにと、驚かない皆に驚く。
バスで眠って起きて、心は軽いが体が凄く重い。公式戦の重みをすっかり忘れていた。いつかに備えて練習し続けたけど、最終的には試合に出る日に備えているのに、試合の感覚を忘れていたなんて、笑えない。
目を覚ました香梨に、一緒に勝ったチームメイトがたくさん話しかけてくれる。隣の千春が優しい笑顔で褒めてくれる。香梨はいつの間にか力が付いていた事、そしてそれを皆が分かってくれていた事に感動した。
もう、何故私が一軍かなんて思わなかった。
六番を背負えば負けられない戦いが始まるのだから。
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